「無条件の救い」は聖書的ではない
また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(黙示録3・7-11)
(1)「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方」
a.イエスは、聖なる方であり、真実な方である。
この世界が偽りに染まっており、どこにも聖人がおらず、真実な人がいなくなっても、イエスだけは真実である。
われわれは、人に裏切られたことによって絶望すべきではない。
そもそも、人を信用すること自体が聖書的ではない。
「人の心ははなはだしく陰険で、それは直らない」とエレミヤは言った。
人に対する期待を捨てて、イエスだけに目を留めるべきだ。
愛を求めて教会に行くことはできないのだろうか。
われわれは、「愛の人」になることを自分に命令すべきである。他人に期待するのはわがままである。
期待できるとするならイエスだけである。
b. イエスは「ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方」である。
つまり、イエスは、契約(神の国、救い)の中にわれわれを入れる権威を持っておられる。
だからテクニックで契約の中に入ることは不可能である。聖であり真実な方がチェックされるのであるから、ごまかしはきかない。
(2)「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。…」
a.イエスは、われわれの行ないを知っておられる。だから、「少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」人は、「だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」。
契約の門が開かれ、救いの中に入ることができるのは、イエスのことばを守り、イエスの名を否定しなかった人々だけである。
「何をやっても無条件に救われる」という考えは間違いである。
契約人としての誠実さを持ち合わせていない人は、救いからもれる。
イエスの御名を否定する者は、滅びる。
(3)「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」
ユダヤ人=契約の民。今日ではクリスチャンのこと。
クリスチャンと自称しながら、実はそうではなく、うそを言っている人々は、本当のクリスチャンのもとに平伏する。
これが、偽クリスチャンの運命である。
「わたしがあなたを愛していることを知らせる」。
まことのクリスチャンは、偽クリスチャンに迫害されるが、最後には勝利する。イエスご自身がわれわれの味方であり、われわれを愛するお方であるとはっきり敵に理解できるようにされる。
だから、われわれは、へこたれてはならない。
あくまでも、最後に勝利すると信じて、イエスの御言葉を守るべきだ。
(4)「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
「全世界に来ようとしている試練の時」とは、紀元70年の旧約時代の終末である。
そのときには大きな迫害が起こった。しかし、最後まで耐えたエルサレムにいたクリスチャンたちは、御使いの誘導によって、エルサレムを脱出し、九死に一生を得た。
他の地域、この手紙の読者のいた小アジア・フィラデルフィアでも同じように救いがあっただろう。
「わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、…わたしも、試練の時に、…守ろう」
御言葉を守らない人には、守りは約束されていない。
忍耐して、御言葉を守った人々は、試練のときに守られる。
(5)「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」
冠とは、王冠である。クリスチャンは王である。
しかし、ぼけっとしていると奪われる。
王権は、御言葉をしっかりと守らない限り、奪われるのである。
人間の教えを御言葉に優先するような人々、進化論を信じて、聖書をないがしろにする人々、世の教えに惑わされて異端に走る人々は、王冠を失う。
契約を維持するには努力が必要なのである。
何をしても救われる「無条件の救い」は聖書的ではない。
2012年7月14日
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