三神論は異端である11


三位一体についての説明に、「「唯一/一つ」の本質と三つの位格からなる」と「「同一/同質」の本質と三つの位格からなる」の二つの説明があります。

前者なら、神存在において、「本質」は一であって、ペルソナは三となります。ただこの場合、疑問として残るのは、父も子も聖霊も「存在者」なので、神存在において、
異なる存在が三つあり、かつ、本質が一つとすると、「存在」と「本質」の関係がよくわからなくなります。必然的に、ここにおける「本質」とは「存在」に従属したものでは無くなります。しかし、「存在」とはその存在の根源であるので、これは矛盾のように感じます。

後者は父と子と聖霊は「それぞれ別個に本質を持たれるが、その本質は等しい」と解釈できます。つまり、神存在において、「存在と、その存在に従属する本質はそれぞれ三つある」ことになります。

私としては後者が正しいと思うのですが、前者の説明が多いので、どちらとも言えません。

後者が正しいです。本質が一つで、三つの人格があるという説明には無理があると思います。
別個の存在が3つあり、本質が一つとなると、八岐大蛇のように、頭が複数ある一つの存在のようなものになってしまいます。
なぜ「本質は一つ」でなければならないのでしょうか。なぜ教会はこのように理解してきたのでしょうか。
私にはわかりません。
推測ですが、「多に対する軽視」があるのではないかと思います。
「一」が尊くて「多」は劣っていると。
聖書にも「本質は一つ。不可分」を証明する箇所はないと思います。

 

 

2018年11月25日



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