罪は絶対に割に合わない



ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5・16)

われわれは、自分の私的な事柄について口外をしない信頼のおけるクリスチャンの友人を持ち、互いに罪を告白するべきだ。

ローマ・カトリックでは、懺悔の部屋というものがあり、そういう罪のとりなしを司祭がすることになっているが、聖書にはそのような規定はない。

われわれクリスチャンは互いに祭司なので、罪を赦すためにとりなしができる。

心理カウンセリングは、罪の悔い改めに代わるものとして、無神論者、反キリストたちが用意した解決法だが、ぜんぜん問題を解決できない。

罪は神に告白して、悔い改める以外に方法はない。

それをとどめて処理せずにおくと悪化する。

精神が狂う。

われわれは、自分が見たり聞いたとおりのことを告白すべきだ。

抽象的な言葉でごまかすのではなく、「〇〇をしました」と具体的に神に申し上げるべきだ。

罪を告白して、「もうしません」と告白し、やり直す決意をすると、すべてがご破算になる。

なぜならば、われわれにはイエス・キリストという犠牲があるからだ。

旧約時代の人々は「罪のいけにえ」を捧げる必要があったが、われわれはイエス・キリストの十字架の犠牲で十分である。

イエス・キリストの御名によって罪は赦される。

一度告白して悔い改めた罪については、繰り返し祈る必要はない。

神は忘れられるからだ。

神が忘れたものをわれわれがほじくり返す必要はない。

過去の罪をいつまでも穿り返して問題にするのは、悪魔の仕業である。

中国と韓国、北朝鮮の反日の連中がいつまでもいつまでも過去の問題をほじくり返すのは、悪霊が背後にいるからである。

彼らは自分が同じようなことをしてきた事実を無視してこちらを責めたてる。

実際にそういうことをして一番損をしているのが自分であることに気付かない。

愚かな民族である。

(2)

犯罪者にとって、詐欺、泥棒、万引き、空き巣、強盗などは、自分の利益を得るために行うものであるが、実際は自分に害しか与えないことに気付かない。

なぜならば、社会のつながりは、信用で成り立っているからだ。

信用を失えば、何をしてパーになる。

罪は常習性があるので、万引きに手を染める人は、万引きの常習犯になる危険性が高い。

万引きをやってただでものを手に入れて儲かった気持ちになっているとしたらその人は馬鹿である。

将来、盗癖がどこで顔を出すかわからない。

盗み癖が出て、会社のものを盗んだり、知人や友人のものを盗み、それがバレたら、それで自分の社会的信用はパーである。

そうしたら、信用を取り戻すのに膨大なエネルギーが必要になる。

小さなときから、盗みに対して子供をしつけてあげる必要があるのは、こういった馬鹿げた不幸な人生を送らせないためである。

(3)

プライドだったか、桜庭選手との格闘技で、体に油をぬって試合に出た選手は在日コリアンであった。

日本では、長い間、客や格闘技ファンは許さなかった。

しかし、韓国では英雄になった。

韓国ではこういった卑怯な行為は問題にならないようだ。

恐るべき堕落である。

こういう不義が蔓延している社会では、商取引がまともにできない。

いつ騙されるかわからない人と取引ができるだろうか。

結局のところ、まともな客は離れ、保険や社会的保障など様々なムダ金を使わなければならなくなって、結局損をする。

約束を破り、自分だけ儲かればいいと考える民族で裕福になっている国民がいるだろうか。

世界を見渡してもらいたい。

そんな民族は一つもない。

(4)

ある有名な教団のトップは、信徒をたきつけて、地方教会の牧師に不信任状を出させ、クビにした。

そうやって、その牧師が努力して建てた会堂を奪った。

こういうことをしたら、もう終わりである。

なぜならば、誰もまともに信用しなくなるから。

こういう話は必ず伝わる。

中傷をしてまじめな牧師を追い出し、会堂を奪うなどということは、ノンクリスチャンでもやらない重大な罪である。

どこの社会でも、こういう無法者は必ず話として伝わるから、結局、自分の墓穴を掘ったのである。

(5)

神に用いられる人は、若いころに小さな罪を犯して痛い体験をする。

神を恐れることを学んだので、将来、大きな罪を犯さなくなるから。

「どうしてこんなことが自分に起こるのか」と不思議に思うかもしれない。

それは、神の長い計画があるからだ。

私は、2度、理由のないことで教会裁判にかけられた。

一度は、再建主義を伝えたことを問題にされた。

しかし、再建主義については、卒論で書いて、牧師から許可をもらっていた。

なぜならば、宗教改革の伝統の中で、セオノミーもポスト・ミレも異端として扱われたことは歴史上ないからである。

むしろ、これらは正統派中の正統派の教えである。

19世紀まで主流を占めていたのである。

だから、私はびっくりした。

「いったい何で裁かれているのだろう」と。

許可をもらった上に、正統的な教えを伝えてなぜ裁判にかけられるのか。

その他の罪状はまるでなかった。ただ教えの問題だった。

もう一回は、別の教会だが、牧師を誤解していたことについて自分から悔い改めに行ったら、長老会にかけられた。

宣告は「悔い改めにきた件について許します」と。

おかしくないか?

長老会なるものを開くならば、何度かの悔い改めの促しをしなければならないと聖書にある。

それでも言うことを聞かない場合に長老に訴えろと。

手続きをすっとばして、一回も訓告なしで長老会にかけた。

この2回の事例を見て、私は「この人たちは、神の恐ろしさを知らない」と思った。

神のもとで裁判を開くということがどういうことを意味するのかということを知らないと。

神の名を出したら自分も裁かれる覚悟が必要なのだ。

しかも、正式な裁判を開いて神を呼び出した場合には、それだけ厳しい裁きがくると予期しなければならない。

やたらに長老会なり、教会裁判なりを開いてはならないのだ。

両方とも、私は一度も向こうから「悔い改めなさい」と言われたことはない。

自分から進み出たら「これ幸い」と引きずり込まれたのだ。

私的な復讐としか思えない。

で、教会はどうなったかというと、そういうことをして、前者はその後、別の問題が起きて信徒がほとんどいなくなった。

後者では、長老会に出ているときに私の脳裏に一瞬「この建物は取り去られる」という考えが浮かんだ。

そのとおり、教会は家賃の問題か何かでそこから出なければならなくなった。

(6)

やたらと神の名を出して裁判なんか開くものではない。

牧師とか教職者になる人は、若いときに、神の恐ろしさを少しでも体験すべきだと思う。

神が裁かれるかただということを知るべきだと。

ある牧師のところに、クリスチャンの妹さんが、相談にきた。ノンクリスチャンの夫の強い要請で堕胎するかどうか迷っていると。牧師はそれは殺人だからやめなさいと言ったが、夫の手前手術を行ってしまった。

その後、夫が運転する車に二人で乗っているときに、一台のトラックが暴走し、突っ込んできた。

夫は即死。自分も重傷を負った。

その後も教会に来ていたが、後遺症で杖をついていた。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6・7)

悔い改めない限り、人間は、自分がやったことの責任を必ず取らされる。

これを自覚することが、「神を恐れる」ということだ。

罪は、絶対に割に合わない。

 

 

2013年5月22日



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