(1)
この伝道者によると、占い師の占いが当たるのは、悪霊が実行しているからだ。
占い師にも未来は見えない。
しかし、占い師が予言すると、それを聞いていた悪霊がその依頼者のところに行って占い師の言ったとおりのことを行う。
すると、その依頼者は、占い師を信じる。
このようにして、その依頼者は占い師にはまっていく。
「あの先生は、私のことを言い当てた」とか「未来を予告したがそのとおりになった」とかで、教会を選ぶと落とし穴に落ちる。
誰も未来はわからない。
ただ一つわかることは、「聖書に記されたことは実現する」ということだ。
それ以上の、「いついつ、ここでこういうことが起きる」みたいなことを言い当てることは不可能である。
もちろん、預言の賜物が与えられている場合は別である。
しかし、新約聖書では、預言の賜物のある人々は旧約のように絶対的権威を持っていたわけではなく、「吟味」の対象である。
吟味というのは、聖書的かどうかということである。
(2)
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7・22-23)
「預言」や「悪霊追い出し」「奇跡」は、預言者が本物かどうかを見分ける基準ではない。
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。(マタイ7・15-20)
見分ける基準は、「成っている実」である。
その預言者や牧師がどのような実を結んでいるか。
集まっている人々がどういう人か。
救われている人々が本物か。
行いはどういうものか。
もし集まっている人々が本当の信仰を持っておらず、異端を信じているようであれば、その実は悪い実である。
その預言者や牧師の行動が、問題のあるものであれば、それは偽預言者、偽牧師である。
彼らは、「彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼で」ある。
狼、つまり、信者を食いものにしようとしている。
彼らにとって信者は「金づる」である。
だから、信仰の内容なんてどうでもいいのである。
信仰よりも、人数集め。
人数が集まれば、献金も増える。
だから、われわれのような人間がうとましいのだ。
われわれは、信仰の内容が間違っているならば、それまでの付き合いなどまったく関係なく、分離する。
信仰の内容といっても、小さな問題ではなく、正統か異端かを分けるような問題である。
それ以外の問題については互いに目をつぶるべきである。
しかし、大きな問題について「聖書的ではないことを言う人」とは、スパっと関係を切る。
ここで妥協すると、せっかく築いた群れが「役立たず」になる。
神の計画においてお荷物になる。
一番重要な点について妥協してはならない。
われわれはディスペンセーショナリズムを受け入れない。
フルプレテリズムを受け入れない。
フェデラル・ヴィジョンを受け入れない。
リベラリズムを受け入れない。
バルト神学を受け入れない。
異教の神々を礼拝する人々を受け入れない。
現段階での神道を受け入れない。
将来、イエス・キリストへの信仰を受け入れて聖書的キリスト教に戻るならば受け入れる。
未来は予定されている。
純粋な聖書信仰が世界を席巻する。
そして、全世界がキリストを王とする体制に変わる。
これは、すでに決定された事実である。
神はすでに歴史全体をフィルムに収められた。
今、われわれはそのフィルムから映し出される映像を見ている。
われわれの前で起きる現実は、永遠の昔に神がすでに決定されたことである。
だから、神の国が勝利し、悪魔が敗北するのは予定されている。
われわれは永遠の昔に決定された計画に基づいて召し出された働き人である。
われわれを通じて神の国が前進する。
われわれが、自分の夢を膨らませても、それが神の計画でなければ実現しない。
われわれは、自分の前に与えられた仕事をこなすことである。
その日々の仕事一つ一つが神の国建設に役立っている。
そして、すべてについて報いがある。
われわれは、われわれの労苦の実を永遠に報いとして受け取る。
それは、永遠の栄光となって輝く。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(2コリント4・17)