新約時代における聖俗の区別
今日、ものそのものに聖俗の区別はない。
主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。(ローマ14・14)
民族による聖俗の区別もなくなった。
ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。(使徒10・28)
新約時代においては、聖俗は信仰の有無によって生まれる。
きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)
契約の中にいる人々、つまり、クリスチャンにとってすべてのものが聖い。
しかし、契約の中にいない人々、つまり、ノンクリスチャンにとってはすべてのものが汚れている。
クリスチャンであっても、自分で汚れていると認めるならば、それは汚れている。
つまり、信仰に基づかないものはすべて汚れている。
ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。(ローマ14・14)
神との関係の中に正しく置かれているものはすべて聖い。
しかし、神と無関係に置かれていないものは汚れている。
たとえば、クリスチャンがノンクリスチャンの意見にしたがって進化論を信じているならばその学識は汚れている。
日常会話の中で、神の御心にかなわないようなゴシップとか悪口、猥談、その他を口にするならば、それは、汚れている。
クリスチャンはすべての食べ物を食べることができるが、自分のうちに「これは不信仰だ」と思うものがあれば、それは汚れる。
つまり、すべてを神中心に行うべきであり、神中心でない行為やものは汚れてしまう。
汚れたものを口にすれば、その人も汚れるので、聖めが必要になる。
旧約時代では動物犠牲を行う必要があったが、新約時代において契約の民はイエス・キリストにあって聖められる。
イエス・キリストの犠牲により、聖められるので、神に祈り、悔い改めを行うべきである。
契約の中心規定である「神を主権者とすること」に違反して、聖めの規定を無視し続けるならば、契約から排除される。
契約の中には「悔い改める意思のない人はいられない」。
われわれは「信仰の範囲内において」何でもできる。
2013年12月16日
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