悪霊の餌食になりたくないなら、祈りの中で解決することである


以前、通訳としてロシア人クリスチャンの少女の精神病治療に同席したことがある。

思春期症候群のような病気であった。

ロシアに帰ってからクリスチャンの男性と結婚した。

大阪の病院で治療が行われたが、入院患者にクリスチャンが多いのにびっくりした。

「聖霊によって…」とかクリスチャン用語が窓の外に聞こえてくる。

彼らが本物のクリスチャンかどうかはわからないが、とにかく、宗教用語が多かった。

クリスチャンになると、霊的な世界が見えてくるので、用心しないと、悪霊が入ってくる。

今の福音派キリスト教では、霊的なことを言うと異端視されるので、こういう問題は扱われない。

だから、みんなどう考えたらいいかわからない。

しかし、聖書には、はっきりと「霊が取りつく」現象が扱われている。

ガダラの狂人の話はその典型だ。

鎖で縛っても引きちぎるほどの力がある。

霊が入ると信じられない力が出る。

人間の体はもともと神殿として作られている。

だから、至聖所がある。

その至聖所まで占領されると、自分の人格を失う。

多くの霊が至聖所に入ると、多重人格になる。

悪霊は、人間を利用してこの世界をサタンの世界にしようとしている。

だから、悪霊は、人間に取りつくことを狙っている。

ノンクリスチャンは大なり小なり憑依されている。

自分に対して特別につらく当たるような人がいたら、内部に悪霊が入っている可能性が高い。

クリスチャンを迫害したくてたまらない悪霊が入っていることが多い。

ダビデを攻撃したサウロがその典型である。


主の霊はサウルを離れ、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。
そこでサウルの家来たちは彼に言った。「ご覧ください。わざわいをもたらす、神の霊があなたをおびえさせているのです。
神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼から離れた。
その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。
ときに、わざわいをもたらす、主の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家にすわっており、その手には槍を持っていた。ダビデは琴を手にしてひいていた。(1サムエル16・14-19・9-20)

「わざわいの霊」がとりついて、ダビデを攻撃させた。

「わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。」

「わざわいをもたらす、神の霊」とは、「神が送られた悪霊」という意味である。

神は、人に裁きを下すために、悪霊に命令して憑依することを許される。

そういう霊が下ると、「家の中で狂いわめ」いて「槍」で襲う。

つまり、今の家庭内暴力である。

暴力夫とか暴力息子などには、確実に悪霊が入っている。

そういう場合、「わざわいの霊が彼から離れ」ると、何事もなかったかのように正常に戻る。

いかに人間が悪霊の影響を受けやすいか。

そして、われわれが異常行動、精神病の症状と見るものが悪霊によるか。

われわれは理解しなければならない。

普通の人でも、場合によってはクリスチャンの場合でも、悪霊に入られて、異常になる。

だから常に用心しなければならない。

心に隙を作ると、さっと入られる。

入った場合は「主イエスの御名によって縛る。われのうちより出て行け。そして、底知れぬところに行け。封印する。二度と出てくるな」と言ってほしい。

出て行くときは、背筋がぞわぞわぞわとすることが多い。

手ごたえがある。

そして、心が軽くなる。

聖書から外れ、神を疑い、人間的な思いになると、入ってくる。

一度入って、不安や恐怖、憎しみに支配されると、頭では分かっていても、なかなか取れない。

人と口論するときにも、次々と入ってくる。

そして、心の中で「こういうことを言ってやれ」とアドバイスしてくる。

相手が激怒するような言葉がポンポン浮かぶ。

争いをたきつける霊である。

だから、口論になったら「手を挙げて祈る」ことである。

議論しても無駄。

ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(1テモテ2・8)

クリスチャンの間で、訴訟を起こすとか、喧嘩をするとかやっているのは、悪霊の知識がないからである。

クリスチャン同士で争う姿を一番喜んでいるのは悪魔である。

われわれには、祈りの武器があるから、言い争うべきではない。

自分が理不尽な攻撃を受けているなら、訴訟をするのではなく、祈るべきだ。

クリスチャン同士の訴訟は禁止されている。

なぜならば、この世の権威をクリスチャンよりも上位に置くことを告白することだから。

クリスチャンは支配者なのである。

クリスチャンは裁判官なのである。

そのクリスチャンがなぜノンクリスチャンに仲裁を求めるのか。

自ら「私たちは自分が王だと信じていません」と告白するようなものだ。

理不尽な目にあったら「飲み込む」ことだ。

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。(1コリント6・7)

「互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北」である。

「むしろ不正をも甘んじて受け」入れるべきだ。

「そんなことをしたら、気が済みません」というだろうか。

祈ればいい。

毎日、毎日、神に訴えよ。

「正義を行ってください」と。

そうしないと、裁かれる。

兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。(ヤコブ5・9)

「つぶやき合う」ならば、すぐに裁かれる。

結局誰も得をしない。

悪霊の餌食になりたくないなら、祈りの中で解決することである。

 

 

2014年2月21日



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