プレ・ミレの人々は、旧約と新約の変化についてはっきりと認識していない。
旧約のシステムが今も続いているかのように考えている。
しかし、旧約のシステムは、新約時代に決定的に変わった。
「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません」(ヘブル7・12)
祭司職が、ユダヤ人レビ族から「メルキゼデクの位に等しい大祭司」に変わった。
メルキゼデクは、まだユダヤ民族が起きる以前、アブラハムの時代の人である。
「イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」(ヘブル6・20)
イエス以降、祭司職は、ユダヤ人レビ族ではなくなった。
律法は、祭司職に基づいて制定される。
さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、――民はそれを基礎として律法を与えられたのです…(ヘブル7・11)
旧約時代は、レビ族の祭司に基づいてモーセ律法が定められたのであり、
新約時代は、キリストという祭司に基づいてキリストの律法が定められた。
だから、キリストは、マタイ5章において、山の上から新しい律法を語られた。
山とは神の臨在の象徴である。
キリストは、モーセに対して神が山上から律法を与えたように、山の上から人々に新しい律法をお与えになった。
では、この新しい律法とは、モーセ律法とまったく別のもの、無関係なものなのか。
違う。
なぜならば、キリストご自身が次のように言われたから。
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(マタイ5・17-18)
モーセ律法は廃棄されたのではなく、成就された。
「成就されたのだから、今は効力はない」という人がいる。
違う。
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)
律法は確立された。
キリストが、契約の民を代表して、律法を完全に守り、成就してくださったので、われわれも完全に守ったとみなされる。
だからといって、その後、律法は守らなくてもよくなったというわけではない。
パウロは、律法を権威として取り扱っている。
教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。(1コリント14・34)
新約時代に、行動規範として、モーセ律法は確立された。
だから、「キリストの律法」とは、モーセ律法の確立型である。
旧約時代において祭司職は民族に限定されていた。
だから、律法はユダヤ人の生活と密接に関係していた。
しかし、新約時代において、キリストが祭司であり、また、クリスチャンも祭司なので(1ペテロ2・9)、民族の垣根は超越されている。
時代や土地や民族に限定されない。
だから、モーセ律法の本質を読み取って、それをあらゆる時代のあらゆる民族に適用しなければならない。
エルサレムの神殿でなければ礼拝できないのでもなく、イスラエルだけが聖地でもない。ユダヤ人だけが契約の民ではない。
祭司職が普遍化されたので、律法も普遍化された。
律法が普遍化されたので、信仰のシステム全体が普遍化され、モーセ以来ユダヤ人の宗教だったものは、世界宗教になった。
もう一度、イスラエルが世界の中心になるとか、エルサレムに神殿が建ってそこから再臨のキリストが支配するとか、そういうシステムではないのだ。
プレ・ミレ・ディスペンセーショナリズムは、ロスチャイルドのユダヤ民族主義に基づく間違った思想体系である。
われわれはクリスチャンでもないユダヤ人に世界を支配してもらいたくはない。
世界の支配者はキリストであり、キリストの民であるクリスチャンである。
これが新約時代における真の権力構造である。