地上の空しいものを用いて永遠の宝を積め
この世の富を軽視することがアミレで訓練され
富にも名声にも興味がなくなっていましたがそれは幼稚。
幼稚な軽視の段階から、高度な循環の意味を知りました。
経済活動が活発なことはいいことだと、理解が出来ました。
同感です。
私たちに富が与えられているのは、「投資」するためです。
ため込んで使わないと、それは、神の役に立ちません。
もちろん、銀行にあずけて利息がつけば、増やすことになるので、それを神のために用いられる。
しかし、神のために何もしないでいることは大きな罪であり、「おまえに預けておいたあのミナはどうした?」と厳しく問い詰められます。
投資をしてそれを何倍にも増殖させた人は「忠実な僕だ」と評価され、何もしないでただ土の中に埋めておいた人は「不忠実な僕」だと叱責されました。
人生は神から預かった富をいかに増殖させるかがテーマであり、私たちは生まれたときから富を持っています。
様々な能力や才能、財産、チャンスなどを受け継いでいます。
これらを、その後の人生においてどうやって増殖するか、が問題です。
この地上で私たちが体験できるものは、どんなにお金を持っていても、終わると「こんなものか」と思えるようなものでしかありません。
最高級のワインを飲んでも、「おいしい。やはり違う。でもだから何?」というレベル。
神の国と切り離された「快楽」は、きわめて空しいものです。
億のお金を手に入れ、自分が望んでいたすべてのことをやった人は最後に「だから何?」という感想しかない。
それで人間は「増やすことそのもの」を快楽にする。
市場を独占したがる。
金を全部自分に集めたがる。領土を拡張したがる。・・・
それとて、終わってしまえば「だから何?」というようなものです。
「天国なんて関係ない!地上だけだ!」という今のヒューマニズムの哲学では、人間は絶望に陥ります。
聖書が教える富とは、「テスト」です。
地上でどれだけやったかが、永遠の世界における立場の変化に直結する。
神のためにやった行為はその百倍を受ける。
ただし、百倍が永遠に続くのですから100x∞=∞です。
つまり、神のために地上において行った行為は、無限の価値となって自分に返ってくる。
この世は軽視するに値するものです。
むなしい。
しかし、そのむなしいものを用いて「永遠への準備をせよ」と命令されている。
だから、私たちは、この地上を神の国に変える責任がある。
地上なんてどうでもいいというわけではない。
愛と平和と秩序が共存するような社会を地上に作らなければならない。
それが、私たちの永遠の祝福となって返ってくる。
2013年8月10日
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