三神論は異端である4


「存在論的に多」を否定すると福音書の多くの記事を説明できないし、行き着くところ様態論やワンネス/天父受難説になりますよね。
「3つの格であって別個の存在ではない」説こそ「神を有限としてしまう」浅知恵、屁理屈としか言えませんがいかがでしょうか?

まったくそのとおりだと思います。

現在のリフォームドは「三神は間違いだ。しかし、父なる神、子なる神、聖霊なる神がおられる。」と言います。

「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」って別々の神であれば、神は三神なのです。

言葉の矛盾があります。

「人間の理解を超えている」と言われるかもしれませんが、神は混乱の神ではないので、すっきりと理解できる道を用意してくださるはずです。

それが、「契約的一体」の原理だと思うのです。

使徒信条の「父なる神の右に座したまえり」も「3つのペルソナ、しかし存在論的にはお一人」ではよほどこじつけなければ説明できませんしね。

そうですね。

「自分の右に自分が座す」。

ありえません。

神は、私たちを混乱させるために、聖書を啓示されたのでしょうか。

いいえ。

私たちに「合理的な理解を与えるために」聖書を啓示されました。

おっしゃるとおり、「存在論的に一」という信仰は、様態論やワンネス/天父受難説に道を開きます。

そして、究極的には、汎神論に行き着く恐れがあります。

神は創造において「分ける」ことをなさいました。

光と闇を分け、天と地を分け、陸と海を分け、エデンと園を分けられました。

汎神論はその逆です。

すべてが同一の存在「神」の部分であると。

なぜ「多様性」は重要なのか。

「神が多様であるように世界を創造されたから」。

「一が尊い」「一が究極の姿である」という道理は、聖書のうちにはありません。

「一も究極的に尊いし、多も究極的に尊い」

これが、聖書の示す原理です。

なぜならば、神ご自身が「究極的に一であると同時に多」だからです。

「存在論的に一」は「一が究極の姿である」という考えが潜んでいると思います。

そして、その考えは「潜在的に多様性を低く見て、多様は最終的に一に帰結する」との誤謬から出ているように思えます。

現在のクリスチャンの間にはこの「ワンネス」に向かう強い動機があり、それが「三神」を受け入れなくさせているのではないか。

聖書は明らかに、「神は永遠に一であると同時に三である」と教えています。

「多の究極性」に対する正しい理解がないと、いずれキリスト教はワンネスや汎神論の誤謬に逸れていくでしょう。

 

 

2018年11月16日



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