平信徒は牧師を祝福できるか


<Q>
ヘブル書7:7
いうまでもなく、下位の者が上位の者に
祝福されるのです。

という箇所についてですが

(1)例えば、Yが
「tomi先生のおはたらきが(神によって)祝福され、
多くのクリスチャンが目覚めますように」
のような祈りは間違いでしょうか?

(2)主のみこころをおこないたいと
願っているすべてのクリスチャンに
祝福がありますようにというのも
間違いでしょうか?

これは下位の私が私以外の皆様より
上位だと宣言しているような恥ずかしいことだとしたら
やめるべきだと考えています。

祝福ということそのものが
昔通っていた教会ではごく日常的に
お互いに当たり前のように祈りあっていたので
あまり本来の意味も考えないでいた気がします。

<A>
ここでは、メルキゼデクは、アブラハムよりも偉大で、レビ族よりも偉大な祭司と呼ばれています。

そして、「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」とありますから、人間ではない存在。つまり、神です。

メルキゼデクは上位であり、アブラハムは下位のものです。

で、「下位の者が上位の者に祝福される」のですから、アブラハムはメルキゼデクに祝福された。

さて、それでは、現在、クリスチャンの間には上下はあるのでしょうか。

もちろん、キリストとクリスチャンの間には上下はあります。

しかし、クリスチャン同士では上下はありません。

なぜならば、クリスチャンは全員が王であり、祭司だからです。


しかし、あなたがたは、…王である祭司…です。(1ペテロ2・9)

教会において牧師がいて、人々を指導しているのは、「牧師も平信徒も平等であるが、しかし、社会的機能として上下がある」という意味です。

私たちは、本質的に平等ですが、しかし、他の組織と同じように、教会において、指導者と被指導者の関係が崩れると、秩序が崩壊しするので、牧師は尊敬し、従うべきです。

しかし、「本質的には」牧師と信徒はいずれも祭司であり、王ですから、平等の関係にあって、どちらがどちらを命令するとか、依存するとかという関係はありません。

会社でも、社長の命と社員の命は同等の価値がありますが、「機能的に」社長の命令を社員は聞く必要があります。しかし、私生活において、社長は社員よりも偉いということはなく、社員が会社をやめれば命令できなくなります。

神は、私たち人間同士が、互いに序列を作ることを禁止しておられます。

ですから、私たちは互いに祭司ですから、とりなしをし、互いの罪を神の御前で赦す権威がありますし、互いに祝福しあう権威があります。(*)

<Q>
祝福がなんであるのか、
またどのように応援の気持ちを祈ればいいのか
tomi様のお考えをご教示いただけないでしょうか?

<tomi>
クリスチャンは、互いに王であり、祭司(であり、預言者)なので、同じ権威を持つ者同士、神の国建設のために働く者として、互いに励まし、祈りあい、応援しあうべきでしょう。

そして、この地上世界において、神の御心が少しでも行われるために、戦うべく互いに力を与え合うのがよいと思います。

(*)
すべては、神の三位一体の関係からきています。

父、子、聖霊の3者は互いに平等ですが、機能的に序列があります。

父は子と聖霊に命令できます。

子は聖霊を使わされます。

人間社会は、神の社会に基礎をおいているので、同様の関係にならなければなりません。

 

 

2012年8月5日





 

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