全能神教会という異端3


1.


「人間によって記録され、神からのメッセージと真理に満ちた洞察が含まれており、法の時代と恵みの時代における神の御業を知るのに役立つが、多くの人間の誤りも含んでいる」・・・
現在、全能神教会の信仰によれば、大書『言葉は肉体に現れている』に記録されている全能神の発言に、聖書よりも安全な導きがあるという。

「多くの人間の誤りも含んでいる」

聖書は原典において無誤無謬である。

聖書は基準であって、聖書を評価する権限は人間には与えられていない。

もし聖書を評価することが許されるなら、人間の判断で聖書を切り取ったり付け足したりできることになる。

そうなると、人によって聖書の厚さは変わってくる。

ある人の聖書は2倍の厚さ、ある人の聖書は数ページのみ、といった具合に。

このような宗教は、人間教であり、キリスト教ではない。

人間の主観が神の御心よりも上位に来るならば、それは、神の宗教ではなく、人間のそれである。

神が神であるためには、神の啓示はタブーであり、人間の手が触れてはならないものでなければならない。

聖書以上の権威を何かに与える宗教は、異端であって、キリスト教ではない。

2.

「6000年にわたる私の支配の計画は、3つの段階、もしくは、3つの時代から成る。すなわち、 まず「法の時代」、次に「恵みの時代」、 (これは「贖罪の時代」 でもある)、そして最後に、終わりの日々に訪れる「王国の時代」である。この3つの時代における私の働きは、それぞれの時代の性質によって内容が異なるが、それぞれの段階で、人間のニーズに応じている」。

「法の時代」、「恵みの時代」、「王国の時代」という分け方は、ディスペンセーション主義にそっくりである。

ディスペンセーション主義の場合、それは主に7つに分けられるが。

http://www.millnm.net/qanda/DISPRO.htm

ディスペンセーション主義と同様に、「法の時代」と「恵みの時代」を分けることは不可能である。

なぜならば、神はモーセに与えられた律法は「恵みの法」だったからである。

神の法そのものが救いである。

神の法は、「被造物取扱説明書」である。

どのように、人間を含む被造物を扱うべきかが記されている。

十戒は、人を縛るためのものではなく、人を繁栄させるために与えられている。

ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。(ヨシュア記1・7)

なぜ盗んではならないか、と言えば、それによって幸せになるためである。

盗むことによって人は不幸になる。

盗み癖がついている人は、幸せだろうか。

虚言癖のある人が、幸せだろうか。

罪は、不幸と破滅への道である。

この世界は神の創造されたものであるので、創造者の解説書が一番正しい。

自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。(箴言28・26)

3.

全能神教会は「全能神は現代において再臨されたイエスであり、中国で生まれた」と信じている。同教会によれば、中国は、ヨハネ黙示録の邪悪な大赤龍が中国共産党という姿で現われた場所であるのと同時に、イエス・キリストの再臨も起こるべき場所である。

中国に「再臨のメシア」が現れる(た)と。

統一協会と同じような教えである。

受肉されたメシアは、ナザレのイエス以外にはいない。

今、イエスはからだをもって天におられる。

真の神であり真の人であるお方はイエスお一人である。

だから、神の代理者はイエスお一人である。

新たなる神人は地上に現れない。

だから、メシアはローマ教会でも、再臨のメシアでも、文鮮明でもない。

イエス以外をメシアとして提示する宗教は、ことごとく異端であり、異教である。

 

 

2019年6月25日



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