四国そのものが神社である4


お遍路さんの八十八か所の札所は、四国をぐるっと取り囲むように配置されている。

そして、そのいずれからも剣山は見えないという。
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これは、おそらく剣山が至聖所だからだろう。

至聖所は、光がまったく入らない聖所の奥にあった。

世俗からはまったく隔絶された聖なる場所が至聖所なのだ。

空海の八十八か所によって結界が作られ、四国は聖域化された。

その結界からも剣山は隠された。

神社のいかなるところからも本殿の中は見えない。

われわれの誰も伊勢神宮の内宮の本殿の中を見ることができない。

だから、神の相続の権利をいっぱいの煮物と交換して捨ててしまうようなエサウのような俗物にとって、神の至聖所はまったくの未知の世界なのだ。

神は、へりくだって真理を求める心の清い人だけに秘密を明かされる。


心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5・8)

「神がいるなら証明せよ」などという不届き者には、刑罰しか与えられない。

神はわれわれよりも上位のお方なので、神を知るには「信仰」しかない。

誰も神を試すことはできない。

われわれが自然界を実験と観察によって知ることができるのは、われわれよりも下位にあるからである。

われわれは、われわれよりも権威の低い者を試すことができる。

大学は、入学希望者を試すことができる。

会社は、入社を志願する人を面接でふるい落とすことができる。

なぜか。

自分よりも権威が低いからだ。

われわれにとって神は創造主である。

被造物が創造主を試すことは許されていない。

だから、われわれが神と聖書に向かう場合には、ただひたすら「信じます。教えてください」というしかないのだ。

神の臨在される至聖所は人々の目から隠されている。

神が許された人だけがその中を見ることができる。

空海が剣山を隠したのは、神の存在をそれに値する人だけに示すためだったのかもしれない。

 

 

2013年2月23日



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