クリスチャンは学問の出発点をキリストに据えるべきである


クリスチャンは学問の出発点をキリストに据えるべきである。

クリスチャンとノンクリスチャンの間に共通の「中立」の土台など存在しない。

他のあらゆる活動と同様に、学問においても、クリスチャンは神の国を求めるべきである。

イエス・キリストを王とする学問の確立が求められている。

米国長老派の学者で、20世紀における最も偉大な伝統的(ビザンチン)テキストとTextus Receptusの擁護者であった故エドワード・F・ヒルズ博士曰く:


われわれはみな、神と御子イエス・キリストを己の思考の出発点にしなければならない。しかし、神学校や大学院レベルでこれをどのように実践できるのだろうか。例えば、どのようにしてキング・ジェームズ訳が正しい翻訳であるかどうかを判断できるのか。Brown-Driver-BriggsやThayerやKittel、Liddel-Scottといった辞書に頼る必要はないのだろうか。そして文法に関しては、この分野の権威者であるGeseniusやBauer、Blass-Debrunnerから学ぶべきではないのだろうか。・・・新約聖書の写本について知識を得るには、GregoryやKenyon、Colwell、Metzger、Alandのような専門家の著書に、ほとんど全面的に依存する以外にはないのではないだろうか。聖書に関して、大学院レベルの研究を行う場合、どうすれば神から出発することができるのか。むしろ人間から出発する以外にはないのではないか。そのほとんどがノンクリスチャンである学者が提供する情報から出発するよりほかに方法はないのではないか。

このような質問は、多くの保守的な神学生をパニックに陥れ、聖書研究を事実上ノンクリスチャン化するかもしれない。このような大惨事を防ぐためには、思考において据えるべきクリスチャン的なスタート地点を強調しなければならない。クリスチャンならば、不信仰な学者たちの主張や彼らの自然主義者的な人間の論理から出発するのではなく、キリストと信仰の論理から思考を開始しなければならない。

・・・聖書研究や哲学、科学、その他のあらゆる学問分野において、キリストから出発し、信仰の論理にしたがいつつ基本原理を考え出すべきである。この手順を踏むことによって、ノンクリスチャンの学者の知識を正しく利用する方法―すなわち、彼らの教えがわれわれにとって利益になるような方法―が見えてくるだろう。たしかに、これらのノンクリスチャンたちは、神の一般恩恵によって、非常に多くの事実を知っている。しかし、彼らはこれらの事実を誤って解釈する。それは、その事実の中で、そして、その事実を通して明らかになる神の啓示を無視し、否定するからである。それゆえ、われわれの任務は、不信仰な思想に存在する矛盾と不条理を指摘すること、そして、ノンクリスチャンの学者たちが集めた事実を学び、それらを聖書の真理という適切な枠組みの中に組み込むことである。

キリストと福音を出発点として据え、信仰の論理に従うべし。これは、とくに聖書の分野における大学院レベルの研究において、従うべき行動原則である。この原則を遵守することによって、あらゆる学識は、クリスチャンの思考体系の中のしかるべき位置にしっかりと収まるだろう。しかし、もしキリストを無視し、知識に関して中立的な方法を採用するならば、すぐに「細々とした知識」という名の荒野に迷い込み、思考はますます混乱するようになるだろう。

Edward F. Hills, #is#The King James Version Defended,#ie#, pp. 106-112, 224-225, etc.

 

 

2019年10月31日



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