輪廻転生と死後の刑罰について
(1)
輪廻転生についてですが、聖書において明確に否定されています。
人間は、自分の行った罪の責任を自分が支払うのであって、生まれ変わった他人が支払うのではありません。
もし、他人が支払うならば、イエス・キリストの贖いの御業はいったい誰のためか、ということになります。
イエス・キリストは、われわれの罪のために死んでくださった。
輪廻転生は、人間の責任をあいまいにするため、法的支配を崩し、世界の秩序を崩壊させます。
コンビニで1000円のものを万引きしたら、1000円のものをその盗んだ人が支払い、逮捕されて警察に行き、場合によって刑罰を受けるのが当然です。
1000円のものを万引きした責任を誰かほかの何も悪いことをしていない人に背負わせるのはおかしな話です。
私は、誰の生まれ変わりか知りません。もし自分があることで苦しんでいるとした場合、「それはあなたが前世で悪いことをしたからです」と言われても、「前世で何をやったかなんて記憶していないから、今私が苦しむのはおかしいと思う」と答えます。
このように輪廻転生の教えがはびこると、「法治主義」が崩れ、何がなんだかわからない理不尽な世界が到来します。
こういうのはニューエイジを信じた社会が陥る「あいまい模糊」とした世界、鳩山由紀夫の「友愛の海」みたいな無責任なものになります。
われわれは、こういう「雰囲気で政治をやる人」に政治をめちゃくちゃにされました。
鳩山は、国家解体をもくろむ国際主義者であり、日本の敵です。
われわれが目指す社会とは、「法を定め、その法を破る者をその法を破ったという理由だけで罰する」合理的な社会です。
(2)「死で全て終る/唯物的?世界観」について。
死ではすべては終わりません。
「人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」とイエスは言われました。
われわれは、法を定めた神の作られた世界に生きるものです。
われわれは、創造された者であるから、創造者が定めた法に違反した場合に、その法によって裁かれます。
生前、さんざん悪いことをして、全部無になる、なんてことは、愚の骨頂です。
スターリンや毛沢東のような千万や億の人を殺したり、粛清した人が、いかなる責任も取らずに済むはずがない。
神が絶対者であり、法を制定した超越者である以上、法を破る者を処罰せざるをえない。
処罰しない場合には、神ご自身がそのシステムに違反することになり、自己矛盾します。
警察官の前で、違法行為をした場合に、警察官はそれを黙認はできません。
警察官の義務は法秩序の維持ですから、違法行為を取り締まらなければなりません。
もし黙認するならば、その法律は「ざる法」になり、実質的に法律は死にます。
たとえば、パチンコの換金は違法です。
あれを取り締まっていないため、賭博法は実際には有名無実です。
パチンコだけ無法地帯になっており、おそらく、警察とパチンコ業界は癒着しているのだと思います。
こういう賄賂など無法が常態化すると、東南アジアや中国のように、「結局は、法律を守るよりもうまいことやって儲けるほうがいい」ということになり、無法な行為が栄えます。
法的秩序が崩壊し、暴力がはびこり、ついに国家は破滅します。
法秩序が維持されるためには、違法行為を赦してはならない。
刑罰は法秩序を守るためにどうしても必要なのです。
だから、神は、われわれのすべての違法行為について責任を取らせようとされます。
一つとして見逃されません。
この地上生活の間は人間の目をごまかせても、神の目はごまかせません。
あらゆる罪について刑罰が下ります。
それが永遠の刑罰、火の池です。
キリストを信じない人は、ことごとく火の池に投げ込まれ、そこにおいて自分が犯したすべての罪の清算を行うことになります。
2012年11月14日
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