組織を超越しイエスに従うべきである



さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。
そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8・18-22)

当時の律法学者とは、今で言えば、東大の教授やカトリックの枢機卿のようなもので、学界・宗教界の大御所である。

大きな権力を持つ人が「従いたい」と言ってきたのに対して、イエスは「私には枕するところもない」と言われた。

つまり、「社会的な地位や財産を捨てることなしにイエスについてくることはできない」とのメッセージだ。

もちろん、それは文字通りではない。

イエスに従うには、社会的地位や財産を「絶対に」捨てなければならないという教えを引き出してはならない。

なぜならば、ローマ軍の権威である百人隊長がクリスチャンになったからだ。

彼はその地位を捨てろと言われただろうか。ノーだ。

「イエスに従う条件は、清貧を貴ぶことである」という教えを唱える派があるが、間違いである。

契約遵守の報いに「富」がある以上、富そのものを敵視するべきではない。

もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。
あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。
あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。
あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。
主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。
主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。(申命記28・1-8)

律法学者に対するイエスの回答は、「権威のシステムの中にあってイエスを信じるとその権威を失うリスクがあるが、覚悟はあるか」というものである。

次に「まず行って、父を葬ることを許してください」と言う者に対してイエスは「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と答えられた。

家族も権威のシステムの一つである。

由緒ある大家族になると、しきたりやら遺産相続やらで、葬儀は一大イベントになる。

イエスに従う者は、家族のシステムを超越しなければならない。

ここから「家族を捨てなければイエスに従えない」との教えを導き出すことはできない。

なぜならば、ペテロには妻がいたからである。

使徒になった後でも、離婚していない。

聖書には家族を大切にせよとの無数の命令がある。

ここにおけるイエスの命令は、「人間の諸制度を超越しない限り、イエスの弟子にはなれない」ということを教えている。

諸制度を「拒絶」するのではなく、「超越」するのである。

人間の制度は、「神格化」する傾向がある。

政府機構や自衛隊や警察でも、その危険性がある。

尖閣海域に入った漁船が海上保安官に包囲され、漁業活動ができなかったという事件が起きた。

尖閣の問題化を避けるとの政府の意向があるのだろう。

安倍さんに対してアメリカ側は圧力をかけているようだ。

中国のアメリカに対する影響力は増している。

「国を守りたい」との使命感に燃えて海上保安庁に入った若者にとって、自分の本来の目的とまったく逆のことをやらされるのは非常に苦しかっただろう。

しかし、そういう意識も、組織の中に長年暮らし、地位が上がるにつれて、薄れていく。

泥棒を取り締まる警察が、裏金を作って税金をねこばばする。

真実を伝える仕事につきたいと入った新聞社が、意図的に情報をねじまげて伝える。

こういう組織の罪に付きあうならば、自分も同罪になり、神の裁きをいずれ受ける。

イエスの弟子になるということは、組織を超越することである。

組織を拒絶するのではない。

警察を否定せよ、とか、マスコミ報道をすべて拒絶せよ、というのではない。

その組織が間違ったことをするならば、それをただし、それでも直らない場合は、抜け出せということである。

組織の罪の中に埋没するな、ということだ。

大きな堕落の中にあった当時のイスラエル社会において、イエスには寝るための場所もなかった。

どこにも居場所がない堕落した時代だった。

今の世界も同じかもしれない。

少なくともわれわれには、加入できるようなまともな組織は消えたといっていいくらいだ。

(2)

加わるべき組織がなくなった場合、どうしたらよいか。

ちゃんとやっていけるか不安になる。

マタイの後続箇所を見てほしい。

イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」 (マタイ8・23-27)

イエスは、万物に対して主権者である。

だから、自然現象ですら自由にコントロールできる。

だからわれわれは「大暴風が起こって、舟は大波をかぶっても、イエスのように「眠って」いることができる。

大切なのは、イエスに従うことである。

イエスに比べれば、組織は無力である。

組織を超越し、イエスに従うべきである。

 

 

2013年6月15日



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