日本最初の教科書はキリスト教的有神論に基づいていた(再掲)
明治政府が最初に作った教科書は、キリスト教的有神論に基づくものでした。
明治6年に文部省から発行された「小学読本」は、はっきりと創造論に立っています。
「天津神は、月、日、地球を造り、のち、人、鳥、獣、草木を造りて、人をして諸々の支配をなさしめたり。」「神は万物を創造し、支配したもう絶対者なり。」
明治七年発行「小学読本」は次のようなものでした。
「神は常に、我々を守るゆえに、吾は、独にて、暗夜に、歩行するをも、恐るることなし。又、眠りたるときにも、神の、守りあるゆえに、暗き所も、恐るることなし。神は、暗き所も、明に、見るものゆえ、人の知らざる所と、思いて仮にも、悪しきことを、なせば、忽ち罰を、蒙ふるなり、人の知らざることをも、神は、能く知るゆえに、善きものには、幸を、与へ、悪しきものには、禍を与ふるなり、」(113-114 ページ)
「それこの世界は、全く人の住居する為に、神の造りたるものにて、世界は、即人の住所なり、既に人の為に、此世界を造り、日あり、月ありて、物を照らし、また其目を歓ばしむるには、地上に、芳草を生じ、梢頭に、美花を開かしむ、」(139 ページ)
「これ皆神の賜ものにして、所として、これ有らざるはなし、凡此地上、及河海の万物は、禽獣、虫、魚、山林、草木の花実に至るまで、皆人を養ふか為に、神の与えたるものなり、神、既に此諸物を、人に与へて、足らざるものなからしむ、故に人々慎みて、神の賜ものを受け、我身の生活を、計るべし、」(139 ページ)
「神は、此地球を造り、人民の、生活する為に、用いる物をば、皆此地球上に、生ぜしむれば、」(144 ページ)
(*旧漢字は新漢字に直してあります。)
これは、全く正統的なキリスト教の教えです。今日のキリスト教諸派の立場よりも正統的であると言えます。
当時、明治政府には2つの相反する思想が拮抗していました。
一つは、尊皇攘夷を看板とする復古神道派であり、日本国民を総神道信者にしてしまおうと国民教化を画策しましたが、大教院の解散(明治5年)を契機に後退してしまいます。もう一つは、文明開化を看板とする進歩派の思想でした。進歩派は、文部省を拠点として、明治5年に学制を制定し、学校教育を中心に理想の現実化を図ります。師範学校を開設し、東京師範学校に義務教育用の教科書の編纂を命じます。この教科書作成の目的は、日本を先進国並の一流国とすることにありました。それが、先に引用した明治6年発行の第一号教科書だったのです。
このような進歩派キリスト教的教育が開始されようとしていたのですが、天皇の側近にいた元田永孚らが宮内庁を動かし、明治15年に「幼学綱要」を文部省とは無関係に発行しました。これは日本中で使用させるための道徳教育用教科書でした。神武天皇、和気清麻呂、菅原道真、楠木正成などの人物が登場し、天皇への忠誠心をすべての日本人の心に植え付けさせることを目的としていました。かたや、文部省側も、編纂委員会を設け、日本にふさわしい理想的な教科書の作成にとりかかるのですが、明治22年、初代文部大臣でクリスチャンでもあった森有礼が暗殺されます。
翌年、機を見るかのように元田や井上毅らは、他の国務大臣の承認もとりつけず、文部省を通すことすらなく、自分たちで勝手に作成した原案をもとに「教育勅語」を交付しました。同時に、自由民権運動を嫌い、激しく弾圧していた山県有朋は、明治22年に第一次山県内閣を組織し、当時の文部大臣榎本武揚を退任させ、自分の息がかかった芳川顕正にすげかえ文部省を掌握します。
この時点で、日本の学校における宗教教育は、天皇を絶対者、支配者として拝む宗教のみのマインドコントロール状態と化していくのです。明治32年には、国家神道一色となった文部省は訓令を発し、学校教育における神道以外の宗教教育を全面的に禁止しました。そして、日本中にあるすべての学校という学校には、天皇・皇后の写真(御真影)を飾らせ、それに向かって礼拝することを国民の義務として強要します。これは第二次大戦終結時まで続くことになります。
明治政府誕生以来続いた2つの拮抗する思想(キリスト教的有神論対国家神道)の対決は、陰謀によって国家神道側の勝利に終わり、この新興宗教(天皇教)によってマインドコントロールされた日本は破局の道をまっしぐらに進むことになりました。
(池田豊氏の論文『明治時代の日本とキリスト教』を参考にさせていただきました。ここにお礼を申し上げます。)
2017年10月21日
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