ヨルダン川を渡ろうと決意したわれわれに加えられている攻撃
2週間以上も不調が続いたのは、インフルエンザだったのかもしれない。
熱はそれほど高くなかったが、しかし、様々な症状が一致している。
今はようやく体力が戻ってきた。
しかし、この寒波のせいで、なかなか落ち着かない。
体調が戻ってきたと思ったら、精神的・霊的な攻撃がやってきた。
自己憐憫である。
「自分はなぜ一人ぽっちでこんな戦いを続けてきたのだろう」と。
自己憐憫は、堕落した感謝のない心から出る。
昨日は、雪の残る荒川土手を歩きながら感謝の祈りをした。
感謝の祈りをすると、感謝すべきことが見えてくる。
畑に放置され、肥料になっている大根のかけらがあった。
「神は人間が食べるための野菜を創造された。これは、偶然に進化によって出現した生物ではない。人間に合わせて神が配慮された結果だ」と思った。
雪解けの水を見ると「こうやって神は、われわれに水を与えてくださった。水がなければ、人間の体は維持できない」と。
食事の後に「このように私に必要なものがおいしく提供されている。感謝です」と。
自己憐憫に陥ると、不満だけがクローズアップされる。
あれが与えられなかった、これが欠けている、なぜ自分だけがこんな目にあうのか、・・・
サタンはこういう言葉を捉えて、次々と不満の種を見せてくる。
この罠にはまると、負のスパイラルに落ち込む。
最終的に自暴自棄になるのが目的である。
自分に欠けているものは無数にあるのだから、欠けているものに目を向けても解決はない。
一生を「自分は惨めだ。神への信仰がなくても幸せそうにしているあの人々がうらやましい。神の法に従ってもいいことはない」という不毛の思考の中で罪の中に落ちていくだけだ。
われわれは、信仰がなければ、ただの人である。いや、ただの人以上に無益になる。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5・13)
2018年1月27日
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