奇跡を否定するクリスチャンはクリスチャンではない
(1)
瞬間移動できると公言する牧師がいる。一瞬のうちに移動したことが何度かあるという。
それを以前ここで紹介したら、「そんな馬鹿な。おかしなことを言うな」と批判された。
ピリポは瞬間移動した。
イエスも瞬間移動された。
エゼキエルは空中移動した。
エノクやエリヤは空中携挙された。
どうして馬鹿な話なの?瞬間移動や空中移動は聖書に書いてあるんですよ。
「いや、あれは聖書の時代の話であって・・・」
聖書の時代には奇跡はあって、今はないということを証明できますか?
聖書のどこに書いてありますか?
「そんなことあるわけがないじゃないか」というような判断の仕方をしたら、「じゃあ、処女降誕も、復活もなかったということですか」と尋ねたい。
奇跡を否定するクリスチャンは、クリスチャンではない。
それは、今の時代においてもだ。
今の時代に奇跡はない、と主張するクリスチャンはクリスチャンではない。
なぜならば、判断の基準が「人間理性」「常識」だからだ。
己の知恵に頼っている。
あの牧師の話が事実かどうかは分からない。
しかし、可能性としてはある。
聖書にしたがえば。
もし「この世界で奇跡は起きない」というならば、祈りは独り言だ。
神との対話なんてあるはずがない。
礼拝も幻想だ。
祈りも礼拝も超自然現象なのだ。
宇宙を閉じられた系として見るのが合理主義。
合理主義はノンクリスチャンの思想である。
超自然を否定し、宇宙の外部からの働きかけはないとする。
だから、宇宙の内部においては、自然現象しかなく、超自然現象は起きないとする。
科学はこの前提でものを考える。
しかし、もし宇宙が閉じられた系であるならば、閉じられた系の中でエントロピーは一定か増大するので、乱雑さは増し、秩序は崩壊する一方である。
だから、進化はありえない。
となると、今のわれわれの存在、生命、生物世界がどうして成立したか説明できなくなる。
つまり、宇宙から神を追い出し、宇宙を超越した存在、つまり、宇宙そのものをコントロールする外部者の存在を否定するならば、宇宙内部において進化は起きないということになるのだ。
奇跡を否定するクリスチャンは、それゆえ自己矛盾に陥る。
創造を信じ、祈りを信じ、礼拝を信じながら、奇跡を否定することは完全な矛盾である。
宇宙は閉じられていない。
神は宇宙を越えて絶えず超越者として宇宙をコントロールし、宇宙内部におけるあらゆる現象に能動的に関与しておられる。
外部とのエネルギーのやりとりがあったから、生命は誕生した。
(2)
われわれクリスチャンは契約に属している。
つまり、イエス・キリストの御体の一部である。
だから、復活体である。
われわれはすでに復活している。
もちろん、この体は滅びる。しかし、それは死ではない。
御霊のからだによみがえる。
われわれの血肉の体が滅んだら即座に永遠のからだが与えられる。
だから、クリスチャンは死なない。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。(ヨハネ11・26)
まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。(ヨハネ8・51)
2011年1月12日
ホーム ツイート