(1)
われわれは、迷う。
なぜならば、有限な存在だから。
無限の存在ならば迷わない。
神の名は、「私は存在する」である。
存在の根源であるから、神は迷わない。
すべてこの世界に存在するものは神の意思による。
神はすべてを把握しており、すべてを管理しておられる。
われわれは、生まれてきて、常に誰か他者の支援を受けている。
知識もだんだんとついてくる。
つまり、無知な部分が常につきまとう。
だから、不安になる。
しかし、神には無知な部分がないので不安にならない。
クリスチャンとは、神のひとり子であるイエス・キリストに契約的につながった人々である。
だから、われわれとキリストとは一心同体である。
だから、われわれは有限で小さい存在だが、キリストにあって全知全能である。
キリストにあって、であるから、われわれ自身が固有の属性としての全知全能性を持っているわけではない。
キリストの御心ならば、被造物に不可能なこともできるし、被造物が知り得ないことも知ることができる、ということだ。
(2)
われわれは迷いがあるが、しかし、神の啓示はわれわれが反論できない程度に明確である。
だから、審判の日に言い逃れはできない。
ノンクリスチャンで、無神論者でも神を知っている。
なぜならば、「神がそれを知らせたから」。
それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。(ローマ1・19)
聖書に反することを主張し、「神はいない」だの「死後の世界はない」だの、「キリストは嘘つき」だの、そういう冒涜を言う連中が、死後必ず永遠の地獄に落ちるのは、「神が反論できないくらいはっきりとその人間にご自身を啓示されるから」なのだ。
「神が明らかにされた」のである。
だから、私は、冒涜を述べる人間にこう尋ねる。
「では、なぜあなたは『神よ、救ってください!』と叫んだのか」と。
人生の中には、何度か絶体絶命のピンチが訪れる。
自分の命が危ない、子供が怪我をした、病気になった、死にそうだ…
会社が倒産しそうだ、クビになりそうだ、来月の生活費がない…
こういう無数の出来事に遭遇するのが人生であり、神があえてわれわれを追い詰めることもされる。
徹底的に自我を打ち砕かれるような出来事の後に、神はご自身を啓示されるかもしれない。
そういうときに、この無神論者や共産主義者、異端の連中は、「真実の神がおられる」と本能的に理解する。
そして、「神よ、助けてください!」と祈る。
それ以外でも、友人のクリスチャンの結婚式や葬式、礼拝に出席したときに神の聖さを体験する。
無数のこういう体験を経て、無神論はあえて「神はいない」と宣言する。
だから、嘘つきなのだ。天邪鬼なのだ。
どうしてこうなのかというと選びである。
もともと「土地が悪かったのだ」
イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
・・・
耳のある者は聞きなさい。
ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」 」(マタイ13・3-9、18-23)
人間には4種類いる。
1.御言葉を聞いても、悪魔がそれを奪って忘れてしまう人。
2.御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人。
3.この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人。
4.みことばを聞いてそれを悟る人。ほんとうに実を結ぶ人。
人間が「土地」にたとえられている。
1.「道端」。つまり、硬くて、目立つので、カラスに食べられる。
サタンがやってきて、福音を聞いたが、すぐに忘れてしまう。別のものに気を取られて心に残らない。
2.福音を聞いて喜んでしばらく聖書を読んだりクリスチャンと会話したり、教会にいったりするが、クリスチャンになることによって被る犠牲の話を聞いてやめてしまう。
もしくは実際に迫害にあったりして、やめてしまう。
3.福音を聞いたがあまりにも誘惑が多く、仕事が忙しいので、やめてしまう。
くだらない小さな幸せのために、永遠の幸せの切符を逃す愚か者。
1〜3は、人生の失敗者である。
4だけが成功者である。
これは、種の問題ではなく、土地の問題である。
自分はいったいどういう土地なのか。
神はあらかじめ4種類の人を創造された。
4の人だけが成功するように定められた。
神の国の事業に関して、4以外のどのような人にも期待はできない。
ディスペンセーショナリズムに騙されて、間違いであることがはっきりわかっているのに反抗し続ける人は、もともとそういうふうに生まれてしまったのだ。
だから、われわれもそういう人を変えようなどとは思わない。
もしかして、神が憐みを与え、変えてくださるかもしれない。
しかし、それはわれわれの仕事ではない。
われわれの側では、「この人は何タイプか?」と見極めることである。
見極めて4だけを選択すべきだ。
われわれが1〜3を変えようなどとするな。
馬の耳に念仏だ。
逆に向きをかえ、牙をむき出して襲い掛かるだろう。
なぜならば、そういう風に生まれてしまったから。
神の国に役立つ人は、希少な宝石よりもさらにまれだ。
だいたいが「金の問題」や「名誉の問題」でつまづく。
言うことはいうが金を出さない人は信用できない。
そもそも、本ねの部分でやる気がない。
神の国なんてどうでもいいと思っている。
(3)
1〜3の人が、なぜ神の国について、やる気がないかというと、聖霊がないからである。
1〜3の人がつまづいて倒れて、教会から去るのは、聖霊がないからである。
すべての教会を去る人がそうだと言っているのではない。
神の国建設に興味がないのは、聖霊がいないからである。
聖霊がわれわれのうちにいれば、必ず神の国に関心を持つはずだ。
神の国を発展させたいと思うはずだ。
全財産を費やしてもそれをやりたいと思うはずだ。
なぜならば、聖霊は神であり、創造の目的として「神の国の地上支配」を設定されたから。
神の国の拡大を切望する聖霊が内側にいながら「神の国なんてどうでもいい」というクリスチャンは
あ・り・え・な・い。
神の国なんてどうでもいいと考えているのは、聖霊を受けていないからである。
聖霊を受けられるかどうかは選びである。
人間の側の努力と無関係なので、われわれにはどうしようもできない。
神が送ってくださった人以外にわれわれは誰をも期待できない。