英語よりもまず国語を


英語の授業数が国語を上回る?


小学校で5、6年の英語が必修となり、中学校では3年間の英語の授業時間が国語を上回るようになったのに続いて、今年4月からは高校で「英語の授業はすべて英語でおこなう」という方針が実行され始めた。大学でも同様に授業を英語でおこなう方向がうち出され、安倍自民党の教育再生実行本部は、米国の英語力試験TOEFLを大学入試の受験資格にすることを提言した。安倍政府のもとで、日本の国でありながら英語の時間に日本語を話すことができず、それによって大幅な学力低下すら心配しなければならないという、バカげたことが起こっている。これに対して、学校現場からも親や戦争体験世代からも、もっとまともな教育をせよとの声が噴出している。
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ネイティブとの英語でのコミュニケーションを増進するためとのこと。

もちろん、英語でのコミュニケーションは必要だ。ただし、そういった仕事をする人の場合。

日本で日常において使用するチャンスはない。

だから、日本人は英語会話が苦手だ。

それでもいい。

学校では文法をきちんと教えて、読み書きができるようにしてほしい。

話すのは、現地に行って必要に迫られて話しているうちにうまくなる。

会話は話す機会が多ければ多いほどいい。

クリスチャンは、子弟に英語教育をすべきだ。

なぜならば、文献がほとんど英語だから。

神学やキリスト教関係の名著は英語で書かれている。

だから、英語をやるべき。

インターネット上の英語のページをすらすらネイティブ並みに読めるように語彙と文法をきちんとやってほしい。

よく文法を知っていても会話ができなければどうしようもないという意見があるが、逆だ。会話ができても文法を知らなければだめ。

たとえば、Ifを使わない仮定法の文など(Had he been there,..., Should I have known that..., など)知って役に立つのかと質問する人がいるが、このような文章は頻繁に目にする。

ネイティブと違ってわれわれは英語に接するチャンスが劇的に少ないのだから、体系的に学ぶ以外にはないのだ。

日本人は、国語力は絶対につけなければならない。

なぜならば、国語は民族のアイデンティティの中心だから。

最近「私わ、」というような間違いを頻繁に目にするが、危機感を覚える。

フランシス・ベーコンの目標「大アトランティスの再興」は、「新しい英語」を中心としたニュー・ワールド・オーダーであった。

民族のアイデンティティを弱めて、世界政府に溶け込ませようとする陰謀が背後にあると見てよいと思う。

 

 

2013年11月23日



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