直接に相手に頼ることは、不信仰の罪、神の栄光を現さない罪である


1.

神は人間を似姿として創造された。

そして、人間は、男と女に創造された。

夫婦は、結婚して一体となり、一人の人となる。それは、法的人、つまり法人である。

存在論的には2人であるが、法人としては一人である。

夫婦契約は、神との契約でもあるから、神と夫婦で3人の契約である。

教会の十字架の前で、夫婦が宣誓をするときに、神―夫―妻の三位一体が形成される。

すなわち、図にすると、


  神
 / \
夫 ― 妻


の三角形(ピラミッド)となる。


机や椅子が立つためには足が最低でも三本なければならない。

ここで、夫か妻、または両者が神を忘れ、神の契約を破ると、神が離れ、一つの軸足が喪失し、倒れる。

神の場所に偶像を据えると、不安定になる。

たとえば、夫婦が子供を偶像にする場合がある。

神を忘れて、子供に自分の野望を託したり、子供を皇帝のように甘やかしたりすることがある。

その場合でも、結婚関係は安定を失う。

恋愛を中心においた場合でも、安定は失われる。

夫婦が互いに見つめ合って神を忘れるならば、2本足になるので、倒れる。

「愛情が冷めた」ということが離婚の原因になるのは、恋愛を偶像にしたからである。

恋愛を中心にするならば、相手に対して過剰な要求をするようになる。

「昔のように愛してくれない」とか。

自分が父親または母親から愛されなかった代償を夫や妻に求める。

相手は配偶者の要求にこたえようとするが、愛情の飢え渇きは満たされても次々現れるものなので、疲れてしまう。

小さい時に受けたトラウマとか、愛情の欠如は、人間によっては絶対に埋められない。

謝罪を求めると、断罪の連鎖が止まらなくなる。

人間関係すべてに言えることだが、「人には何も要求してはならない」のである。

小さい時に父親または母親に愛されなかった人は、心に穴が開いている。

その穴を埋めるのは、夫でも恋人でもない。

求め始めると、無間地獄に落ちていく。

相手は「付き合いきれない」と言って離れていくだろう。

夫も妻も、自分と神との間で自己完結すべきである。

愛情の飢え渇きを神に求め、神から超自然的な平安を得るべきである。

だから、それぞれが信仰によって独立する以外にはない。

自己完結できない人が正常な人間関係など作れるわけがない。

社会を形成しようとする人は、他者に対する「法外な」要求をしなくなるまで独立しなければならない。

2.

しかし、人間は一人では生きられない。

他者を必要とする。

では、他者を求める場合に、どのようなアプローチが必要なのか。

神に求めるのである。

「自分にはこれこれの必要があります。神様与えてください」と祈るのである。

そうすれば、神はそれを与えてくれる人を使わされる。

モーセは、民が「水がほしい」「肉が食べたい」と言って迫り、反逆したときに、まず神に求めた。

モーセは、まず神の御座の前にひれ伏した。


しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。(民数記13・31-33、14・1-5)

自分の判断で、民に向かわずに、神に求めた。

御座に向かわずに、直接に民に向かったときに失敗した。

イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。
ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。
民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。
なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。
なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現われた。
主はモーセに告げて仰せられた。
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。
そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。(民数記20・1-13)

主の前に出たことは出たが、御言葉どおりにせず、自分の激情のままに行動してしまった。

主の命令は次のとおり。

「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」

モーセの行動は次のとおり。

そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。

「この岩から私たちが」、つまり、「主が」ではない。

これは、神の栄光を現さない行為であった。

「主があなたがたのために水を出してくださる」ではなく「私たちが水を出さなければならないのか」。

あまりにも民が自分勝手で、不信仰なので、怒りがたまっていたのだろう。

自分の感情を直接ぶつけてしまった。

しかも、神の奇跡を、自分の奇跡のように言ってしまった。

そのため、モーセは、カナンの地に入ることができなかった。


   神
  / \
モーセ ― 民


の三角形において、神を消したために起きた失敗である。

人間関係は、自分と相手の2者で成立するものではない。

常に、神を介して相手に接する必要がある。

人に頼らねばならないときは、まず神に伺いをたて、そして、神から人を送ってもらうべきである。

直接に相手に頼ることは、不信仰の罪、神の栄光を現さない罪である。

 

 

2015年7月25日



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