聖書を裁く者が永遠の刑罰を受けないわけがない3
(1)
こういうことを言うと、人間教徒はすぐに「宗教原理主義だ!」という。
「聖書は無誤無謬である?科学的審査を経ないでそのような結論を問答無用に持つとは、カルトにほかならない」と。
「だから、危険なのだ。麻原尊師の言葉は絶対だというカルトとどこが違うのか」と。
これと同じことをわれわれは、人間教徒たちに言うことができる。
「宗教原理主義だ!人間理性は神の言葉すらもチェックできる?いかなる証明も経ないでそのような結論を問答無用に持つとは、カルトにほかならない。科学が自らの方法論を無視して、神存在や死後の世界について断言できるとなぜ言えるのか?データを集めることができない分野についてなぜ評価できるのか?だから、人間教は危険なのだ。麻原尊師の言葉は絶対だというカルトとどこが違うのか」と。
つまり、聖書信仰にしろ、人間教にしろ、最終的に循環論に行きつく。
なぜならば、人間の認識能力は限界があるから。
科学者や考古学者が何を発見して理論を作ったとしても、それはあくまでも「得られたデータから類推したもの」に過ぎない。
科学は帰納法的認識論に基づくわけで、常に反証の余地を残しておかねばならないわけだから、どこまで行っても科学的理論は「理論」に過ぎない。
それまでの理論に合わない新しいデータが得られた場合、それを乗り越える理論が生まれる余地がある。
そのような流動的なものを固体的なものと誤解して、宗教的断定を行うことは本来できないはずなのに、人間教徒たちは、断定をしてはばからない。
そしてキリスト教を断罪する。
ここに大きな逸脱があるのにそれを無視して傲慢を恥じない。
科学的認識論を絶対化した瞬間に、われわれは何も断言できなくなるのだ。
「人を殺すことは罪だ」とすら言えない。
人間理性を究極に置くことによって、われわれは、何も決められなくなる。
法律も決められない。なぜならば、殺人を悪と断定できないから。
じゃあ、なぜ人間教徒たちは、殺人を悪と断定し、殺人罪を罰する刑法を制定するのか。
「社会を構成する大多数の意見」だからだ。
しかし、「究極的に悪だ」と言えないから、殺人を犯して処刑された人は、「運が悪かった人」にすぎないということになる。
「たまたま、殺人罪を死罪と定めた人々の数が大多数であった社会に生まれたばかりに…」と。
つまり、人間教徒に背骨はない。彼らに生きるための柱はない。
「多数派の意見」に流されて生きる藻にすぎない。
だから、人の目が気になって仕方がない。
人間教徒は、大なり小なり対人恐怖症患者である。
(2)
クリスチャンは、聖書こそ万物を評価する基準だと信じる。
それは動かない不動の基準だと。
そして、それに依存するので、心がぐらぐらしない。
クリスチャンは、万物を完全に知っている神の言葉である聖書に信頼するから、「万物を知っている」。
科学的認識論だと、実験観察して得られたデータに基づいて類推できるわずかな領域のことについて人間は知ることができるだけなので、その他の巨大な世界について無知だから、常に不安である。
正義が必ず勝つという確信もない。
だから、今のいじめっ子を放置し、いじめられた側の登校を禁止し、転校を進める腐った教育者が生まれる。
すなわち、聖書を信じられなくなると、臆病になって、腐るのだ。
野田のように、常に強い者にへこへこし、弱い者に傲慢になるきわめて程度の低い人間に堕ちるしかない。
(3)
人間教徒になると、力を信じるしかない。正義とか関係ない。
もしくは、魔術に走る。
人間の力を超えた存在に頼りたい人は、占いや呪術に走り、オカルトになる。ニューエイジとか、ヨガとか、東洋思想とか。
しかし、その背後にはサタンが巣をはって待ち構えている。占いにはまった人々をコントロールし、悪事を働かせるようになる。
もしくは、運命論者にして、占いや風水や数秘術によって徹底的に縛られるようになる。
聖書の神に頼れば、自由と力が得られるのに、そういった王道を拒否する。
(4)
聖書の神に頼る以外のすべての道は、むき出しの力か、魔術にしか解決はなくなる。
そのため、どちらに転んでも奴隷にならざるをえない。
世界を支配しているのは、キリストである。
信仰によって、キリストに付け。
聖書を知識の土台とせよ。
それを一瞬でも疑うな。
この信仰の訓練を積んで、しっかりとした土台を作れ。
それ以外に解決はない。
2012年8月9日
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