一番、人々が騙されている教えは、自然主義であろう。
われわれは「自然が一番だ。人工的なものは自然を破壊し、世界を悪くするだけだ」と洗脳されてきた。
聖書的キリスト教はこれを異端と呼ぶ。
聖書的キリスト教は
1.自然は堕落している。
2.自然は復活しなければならない。
3.クリスチャンが自然を統治すべきだ。
と教える。
自然に存在するものの一種が人間の心である。
人間の心を自然のままに放置したらどうなるだろうか。
むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。(箴言29・15)
子をわがままに育てると、母は恥を見る。
だから、むちと叱責が必要であり、それによって子供は知恵を得る。
それゆえ「放任教育」は必ず失敗する。
新潟で少女を誘拐し、9年間監禁した男は、母親から甘やかされ、最後は手がつけられないほど凶暴になった。
生徒の非行を矯正しない学校はどうなるだろうか。
荒れ放題になる。
自然は堕落している。
「自然のままの姿が美しい」というのは、「アダムは堕落し、その結果、自然も堕落した」という聖書の教えの拒絶であり、それゆえ、悪魔的である。
ヌーディスト運動は、「人間は裸の状態がいい」という自然主義の一種である。
しかし、聖書は「裸の状態がよかったのは、堕落前であり、堕落後は裸は恥である」と教えている。
アダムが堕落してから、裸を恥じるようになったのは「自然は異常化した」ことを示している。
堕落以前、アダムは完璧であり、裸の状態で神の前に出ることができた。
しかし、堕落してからは、裸が異常化し、そのため、衣を着ることが必要になった。
アダムはいちじくの葉を綴り合せて、腰を覆った。
これは、人間の努力による正常化を教える「行為義認教」を象徴する。
神はその代わりに、獣の衣を作り着せられた。
これは、イエス・キリストの犠牲による贖いを象徴する。
ヌーディスト運動は、キリストの犠牲の拒絶であり、それゆえ悪魔的である。
今、日本人の間に現れている「日本人は自然と一体化することを好むが、キリスト教は自然を支配しようとする」というような主張は、一種の自然主義である。
自然は異常なのである。
もともと神の被造物として完璧に造られたが、堕落によって虚無化した。
神と被造物の契約において、被造物側の代表者であるアダムが堕落したので、被造物全体が堕落した。
それゆえ、われわれは、「ありのままの自然」を賛美してはならない。
自然はイエス・キリストによって贖われ、神の言葉によって統治されなければならない。
つまり、自然はクリスチャンによる統治を待っている。
自然は、クリスチャンが神の言葉に基づいて統治するときに、本来の姿に戻り、繁栄する。