一神教は対立をあおって平和を損なう?
一神教を奉ずる方の思想は二元論的な思考法に基づきますので、そこには神対人、善対悪、人間対自然、搾取者対被搾取者、個性対調和というような対立が生まれますが、日本の神道的な思想、つまり多元論的な思考法では、二極性も対立ではなく、平和的創造的な思想となります。
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こういう考え方が日本にはびこりつつあるのは非常に残念であると同時に危険である。
聖書的キリスト教は、二元論的であると同時に一元論的である。
なぜならば、契約だから。
聖書の契約思想とは、異なる2つのものが、契約を通じて一致することを意味する。
だから、この思想では、汎神論でもなく、かといって孤立主義でもない。
汎神論では、あらゆるものが自他の区別を撤廃しつつ融合するので、無原則的な平和、野合が生れる。
自分のものと他人のものの区別ができないので、私有財産制を否定する結果になる。
汎神論は「一」の思想である。
それに対して、無神論は、「多」の思想である。
一致することに意味がないので、際限なく分裂を繰り返す。
もはや親戚も、地域共同体もない。
個人主義にならざるをえない。
日本人は、こういうものとしてキリスト教をとらえる傾向があるが、危険である。
聖書の契約主義的キリスト教とは、自他の区別をしっかりと行う。
これによって科学が成立する。
対象を客観的に認識する。
汎神論だと、すべては神になるので、自然研究ができない。
「神を調べるなんて許されるのか!」と。
契約思想は、自然を他者として自分から切り離して観察できる。
だからといって、自然を和合の対象としてみないかというとそうではない。
契約とは、他者と合一することを目指す。
結婚がよい例である。
男女は別々の存在であり、結婚してからも別個の個体であるが、結婚契約を通じて一体になる。
二人で一人であるが、だからといって互いが別の人格になったわけではない。
聖書の契約思想においてのみ、科学も私有財産制も家族制度も地域共同体制度も存立できる。
日本人よ、三位一体の神と、イスラムの一神教とはまったく異なる信仰であるから区別されたし!
2012年12月28日
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