契約と寿命
学生時代の友人らがだんだん病気に冒され、中には亡くなる者もいる。
みんな40代まではぴんぴんしていたのに。
昔は平均寿命が50歳。戦国武将も50代で亡くなっている。
カルヴァンは55歳。
医療が未発達な時代に、人の体は本来、だいたい50年で寿命が来るようにできているようだ。
それでも本来定められた寿命が120歳なので、いかに洪水後、呪いが続いてきたかということだ。
そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。(創世記6・3)
アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。(創世記5・5)
メトシェラの一生は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。(創世記5・27)
「物事を慎重に判断する者は、カインが建てたのはただの町ではなく、大きな都であったことを疑い得ないであろう。そのころは人間の一生は今よりも長かった。もっとも、不可知論者がこれら族長たちが生きた年数についての聖書の権威を疑問に付し、それを信ずることを拒否すれば話は別である。そう言う者は恐らく族長たちの身体が、今日のわたしたちのよりも、はるかに大きかったことも否定するであろう。しかし有名な詩人のヴェルギリウスは、境界線にしるしとして置かれ、このころのある勇士が戦いに際してこれをかつぎ上げ、走って行って敵をめがけて投げつけた石についての話を記している。『しかし、今日のわれわれの身体の大きさでは、十二人の屈強の強者でさえも、この石を肩に持ち上げることはできまい』(アエネイス12・900)ヴェルギリウスが言わんとしたことは、昔の人の身体は今よりも大きかったということである。そうであるならば、かの大洪水の前、世界が始まったばかりのころには、もっと大きかったことであろう。このころの人体の大きさについて、昔の墓が年月が経ち、また洪水やその他の原因によって地表に現われ、そこに見出される死者の骨がほとんど信じられないほどに大きいことからも、多くの懐疑論者すらも疑い得ないことである。…すぐれた学者であった大プリニウスは、時代が経つにつれてわたしたちの身体は小さくなるだろうと述べている。彼の指摘するところによれば、ホメロスはその詩の中でこの種の退化を嘆いている。プリニウスはそれを詩人ホメロスの虚構として一笑に付することなく、自然の驚異談の記録者としてのホメロスの性格にかんがみて、歴史的信憑性があると主張している。…同じプリニウスは今日でも人々が二百歳まで生きる国があると言っている。わたしたち自身が体験しないほど長生きをする人々の国が、たとえわたしたちが知らない所にであっても存在することを信ずるとすれば、はるか昔にも存在したことをどうして信じられないだろうか。このところでは存在しない何事かが他の所では存在すると信じられるとすれば、今日では生起しないことでも、はるか昔には起こったことをどうして信じられないだろうか。」(アウグスチヌス著『神の国』出村彰訳、日本基督教団出版局、1977年、338〜340ページ)
モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。(申命記34・7)
2013年3月9日
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