1.
ドストエフスキーの小説『罪と罰』(1866年)で、主人公は殺人に変な理屈を考えだした。
凡人は一人殺しても犯罪になるが、ナポレオンのような天才は、何万もの命を奪っても英雄になる。
彼らは、世の中の改革のためならば、社会道徳を踏み外す権利を持つ。
この理屈に基づいて彼は強欲狡猾な金貸しの老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと計画し、実行したが、殺害の現場に偶然居合わせたその妹まで殺害してしまった。
ドストエフスキーがロシアの預言者だと言われる所以である。
1917年以降、ロシアにおいて、共産主義者は「革命に犠牲はつきもの」と、多くの人を殺害した。
中には正義感から革命に参加した者もいただろう。「ブルジョワが悪い。あいつらを殺せば、理想社会ができる」と考えて、殺人を犯した。
しかし、結局、ブルジョワでもなんでもない無辜の農民まで大量虐殺した。
聖書に基づかず、聖霊の導きによらない「善意の行動」にはこのような落とし穴が待っている。
「動機がよければ、このような罪も許される」と考えて行動しても、偶然が偶然を呼んでどこかで「自分の意図しない結果」を生み、後悔する。
レーニンは死の床において、自分が主導したロシア革命についてこう述べた。
私は、大きな間違いを犯した。私は、無数の犠牲者から流れ出る血の海の中で茫然自失している。これは、悪夢だ。今更戻るには遅すぎる。われらが祖国ロシアを救うには、アッシジのフランシスのような人間が必要だったのだ。このような人間が十人いれば、我々はロシアを救うことができただろう。(R.Wurmbrand, Max and Satan, p. 59)
2.
『悪人に平穏なし』(2011年)(NO HABRA PAZ PARA LOS MALVADOS/NO REST FOR THE WICKED、エンリケ・ウルビス監督)というスペイン映画は面白かった。
閉店後のある酒場で殺人を犯し、全員を殺したはずだったが、一人だけ目撃者を取り逃がしてしまった主人公の刑事が、その目撃者を探すために本業そっちのけで必死に彼を探そうとする。
この刑事の周りでは、以前に不可解な死亡事故が何度か起きている。それらはすべて「職務上の事故」で片づけられてきたが、職権を利用した完全犯罪だった。
邪悪な行為や計画は、それがいかに完璧であっても、どこかに抜け穴があって、そこから全体が崩壊し、自らを破滅に導く。
『罪と罰』と通じるものがあると感じさせる映画だった。
3.
神の法を破ると、呪いがかかる。
誰しもこの呪いから解放されない。
どんなに知恵を巡らしても、神の手から逃れることはできない。
神は、罪の計画の中のどこかに必ず落とし穴を用意される。
バテシバとの姦淫を隠ぺいするために完全犯罪を計画したダビデ。
忠実な兵士であった夫ウリヤを戦場から呼び戻して、バテシバとの時間を作らせ、妊娠を合理化しようとしたが、ウリヤが戦場を離れることを拒んで失敗。
最後は、もっとも戦闘が激しい場所に送って戦死させた。
神は、預言者を送って、ダビデを責められた。
「完全犯罪が成立する」と思わせたのは、傲慢な心である。
4.
どのような傲慢で反省心のない無神論者であっても、神の存在を否定できなくなるくらいの圧倒的な体験をさせられる。
神を否定し、神に敵対してそのままで済むわけはない。
神の御手にかかれば、人間などひとたまりもない。
「神はいない」と述べた瞬間に、神の呪いがかかり、その発言を後悔する出来事へと事態が進展していく。
だから、われわれは聖書を証明する必要はない。
神が存在すること、聖書が神の御言葉であるということは、自明の理である。
誰でも、この2つのことを、身をもって体験させられる。
この体験に際して、2つの対応がある。
(1)素直に受け入れて、悔い改め、救いを受け入れる。
(2)目と耳をふさいでなかったことにし、滅びに至る。
神の言葉は「すべての議論を終わらせる最終判決」である。
死刑は正しいか?という議論を終わらせるのは「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9・6)という御言葉である。
受け入れない者は、自滅の道をたどる。御言葉を提示した後の責任はわれわれにはない。
5.
全知全能の神に対して挑戦する者は、すべて愚か者である。
神は、悪事がそのままで終わることを許されない。
必ず、どこかに落とし穴を設置され、悪人はその落とし穴にはまって苦しむ。
911を実行した人々は、それを内部告発しようとする仲間を次々と殺したり、名誉を貶めたりしてもみ消しを画策してきた。
無理だ。
あきらめろ。
イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(ルカ19・40)