ローマ・カトリックの教えを聞くたびに、どうしてキリストの影が薄いのか疑問であった。
マリヤとか聖人とかが中心に出てくる。
殉教や敬虔な生活なども強調される。
マリア・テレサの活動とかにしても、紹介では、キリストの贖罪がどこにも出てこない。
むしろ彼女は「仏教徒には仏教式のお葬式を、回教徒には回教式のお葬式をしてあげます」などという。
キリストの贖いの御業が消えている。
ローマ・カトリックがなぜこれだけキリストを押しのけるかというと、サタンだからである。
サタンにとって敗北とは、キリストの十字架である。
キリストが十字架についたということは、世界の贖いが成就したことを意味する。
十字架の血は、天地万物の聖めのための犠牲であり、それによって、天地万物が神と和解し、神の支配下に入るので、十字架こそが神の勝利なのである。
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)
十字架後の現在、天地万物は神と和解しており、神の所有に復帰した。
ただし、これは「法的に」である。
アパートの権利を法的に獲得しても、中に住民が住んでいると実際的には所有していないのと同じように、世界は法的には神のものであるが、実際的にはまだ獲得の途上にある。
クリスチャンは、この働きのために召されている。
「法的」所有を「実際的」所有にすること。
サタンはこれを妨害している。
妨害の方法として、基本は、十字架を否定することである。
キリスト教の中に似て非なるものを混入させて、十字架による贖いを否定する。
その勢力を支配的にし、キリスト教界を牛耳ることによって、キリスト教が有名無実化するように仕向ける。
こういう手法を取っているのだ。
だから、似非キリスト教では、贖罪が中心ではない。
マリアによるとりなし、とか。
聖人崇拝とか。
さらに、敬虔な生活や奇跡、神癒、殉教、迫害、デボーション、伝道、神学、慈善、瞑想…の過度の強調。
こういった本来、それ自体正しいものでも、サタンに利用される。
キリストの贖罪が忘却されるように、一見正しいものを過度に強調し、それに注意を向けさせ、いつのまにか違うものに変質させるのがサタンの方法である。
つきつめると、この世界には2種類の宗教しかない。
1.贖罪宗教
2.知識宗教
人はキリストの贖罪によって救われるのか、それとも知識によって救われるのか。
サタンはエバに対して「善悪の知識の木」から取って食べなさいと言った。
知識による救済を提示した。
この誘惑は、形を変えて歴史において繰り返し登場してきた。
神道はもともと贖罪宗教であった。
天岩戸伝説は、キリストの贖罪の話がもとにあった。
お祓いとは、「罪の代価を払って、罪と罪責を消す」行為である。
お祓いの際に祭壇で左右に振る榊は、天照大神の象徴である鏡が掛けられた「逆木」である。
つまり、榊とは「贖罪の枝」である。
これと同じ儀式をユダヤ人も行う。
過越の際に、鴨居と門柱に贖罪の羊の血を塗る際に使ったヒソプの枝を、祭壇の前で左右に振る。
それに対して大陸から渡来した仏教は知識宗教であった。
仏教は、ギリシア思想と同様、自力で救いに至るとする教えである。
ギリシアとインドは大変思想的に親近性があると言えます。それもその筈,同じアーリア人種が東に移動してインド人に,西に進んでギリシア人になったということです。
両者の宗教思想的共通性としては、サンサーラ(輪廻転生)思想があげられます。インドにおけるサンサーラは現世の業(カルマ)が原因となって,次にどの境涯に生まれ変わるか決まるのです。ですから現世で善因を積めば,来世でより良い境涯に成れるわけです。後に仏教の中で発達したサンサーラの六道輪廻説によれば,天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの境涯(六道)を無限に生まれ変わることになります。
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この輪廻転生する此岸から輪廻転生することのない彼岸へ,再び生まれない世界に到達することを願って修行するのです。
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/chinashisoushi/9budda.htm
古代日本に入ったキリスト教は、次第に仏教などの影響により、贖罪信仰が薄れ、有名無実化した。
茅の輪くぐりなどにその片鱗は残っているが、教義としてしっかりとキリストによる贖罪を取り戻すべきだ。
このように、サタンが一番つぶしたいと思っている教えとは、十字架による贖罪である。
われわれはすべての似非キリスト教を退け、贖罪を中心に置く純粋なキリスト教を伝えなければならない。