本物のキリスト教に出会いたいなら
翻訳というものを誤解している人が多い。
翻訳とは、原文の意味を忠実に異なる言語の人々に伝えることである。
もし原文に何かを付け加えたり、そこから取り除くならば、それは翻訳ではなく、「創作」である。
原著者の文章を利用して自分の主張をしているに過ぎない。
だから、翻訳の場合には、厳密さが要求される。
私は、一文を訳したら、すぐに原文と対照して訳抜けがないか、間違って解釈していないかをチェックする。
こうすることによって、誤訳を防ぐことができる。
われわれクリスチャンは預言者である。
ちなみに、クリスチャンは、王、祭司、預言者である。
この預言者の使命とは、「神のメッセージを過不足なく伝える」ことにある。
聖書は神の言葉であり、われわれに対する啓示である。
だから、聖書に付け加えたり、そこから取り除くことは絶対的に禁止されている。
もし付け加えたり、取り除くならば、われわれは、新興宗教の教祖になる。
聖書に記されていない輪廻転生や、プレ・ミレ切迫再臨などを伝える人は、新興宗教の教祖であって、キリスト教の牧師でも伝道師でもクリスチャンでもない。
翻訳の仕事をしていると分るが、翻訳者には、良い翻訳者か悪い翻訳者かの2つに一つしかない。
良い翻訳者に頼むと、ほとんどミスがないが、悪い翻訳者は、随所にミスがあり、修正作業に翻訳と同じくらいの時間がかかり、依頼した意味がない。
悪い翻訳者の特徴は、「原文に忠実であろうとする態度がない」ことである。
すべての問題はここにある。
訳文の日本語の問題もあるが、それよりも第一に「原文へのこだわり」がない。
だから、訳抜けや誤解釈が起きる。
絵が下手な人の特徴は、観察不足である。
対象がどのような形状をしているか関心があまりない。
会話下手な人の特徴は、話を聞く姿勢が足りないことである。
相手が何を言いたいのかに関心がない。
試験の成績が悪い人の特徴は、題意を読めないことにある。
出題者の意図を読み取ることができない。
だから、とんちんかんな答えをする。
英語の発音が悪い人の特徴は、ネイティブがどう発音するかに関心がないことにある。
自分の勝手に考えている音で表現しようとするから発音が悪くなる。
これらに共通するのは、「まず学ぶ」姿勢のなさである。
どうして「まず学ぶ」ことができないかというと、「低いレベルの欲望」に甘んじるからである。
「今は我慢して学び、十分に実力がついてから表現しよう」というのではなく、「今すぐ脚光を浴びたい」という願望が優先されるので、結局、くだらないものしか得られない。
韓国は、2002年のワールドカップでイタリアやポルトガル相手にテンコンドー・サッカーをやった。
その場では勝って4位になって国威発揚できたが、反則と買収疑惑によって国の評判は取り返しがつかないくらいに落ちた。
イタリア人はいまでも韓国人に対して恨みを持っている。
この韓国人の「地道な努力をしたくない。今すぐ果実を手に入れたい」という態度こそが、世界の中で低レベルの評価しか受けられない原因なのだ。
地道な努力をしない人は、高いレベルの目標を達成できない。
聖書に勝手な読み込みをして、終末が近いとセンセーショナルに訴える書物を売りあげて、ほくほくしているようなキリスト教は、バッタものである。
もし正しい教えを求めるならば、地道な努力を積み上げ、じっくりと基礎を学ぶことを尊重するような牧師や伝道師のところに行くべきだ。
2014年4月6日
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