神と自分の関係を確立していない人はもろい


宇都宮の爆弾男。

70代になって家族に捨てられて犯行に及んだのか。

若い時に信仰に入っていれば、絶望することもないのに。

信仰者は、人に裏切られ捨てられても絶望しない。

なぜならば、神がともにおられるから。

人が自分のことを理解してくれなくても、神が理解しておられる。

それでいいじゃないか。

「〇〇に嫌われたら生きていけない」「〇〇に先立たれたらどうしよう」

こういう恐れは、偶像礼拝に起因する。

神以上に人間や被造物を恐れ、頼り、期待することを偶像礼拝という。

このような偶像礼拝を捨てさせるために、イスラエルは荒野を歩かされた。

水も食糧もない荒野を、ただ信仰のみによって生きることを強制された。


それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8・3)

「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」

偶像礼拝者の特徴は、神の言葉への無関心である。

偶像礼拝者にとって、神の言葉は生きるのに役立たない。

「聖書なんてなくても生きていける」「信仰は信仰、現実は現実だから」

神の言葉にこだわり、それに生きることを真剣に求めている人は、聖書に解決を見出し、信仰によって現実を乗り越える。

だから、信仰において成長がある。

信仰年齢に応じて信仰が強くなり、その人が祈ると大きな力を発揮する。

しかし、偶像礼拝者にとって神の言葉はどうでもよいものであり、現実の問題は現実的に対応し、御言葉そっちのけで解決するので、信仰年齢を重ねているのに、信仰が強くなっていない。

考え方が世的・人間的である。

神の言葉を行い、祈って問題を乗り越えた体験がない。

だから、誰にも信仰に基づいてアドバイスできない。

つまり、荒野を通過したにもかかわらず、ヨルダン川を渡る手前でしり込みした人々と同じように、そういう人は、滅ぼされ、御国に入ることができない。

御言葉を重んじ、それによって生きている人は、聖書的なミニストリを見分けて支援をする。

しかし、偶像礼拝を続けてきた人々は、見分けができないので、非聖書的なミニストリに献金をする。

人生の最後の最後に、偶像礼拝者は、人間的な支えを失うと自滅する。

老人になって楽しみがなくなり、友人も減って、孤独になったときに、それまでと同様に人間的な価値観を働かせ、信仰的考え方ができないので、絶望する。

共産主義教育を受けた全共闘世代が老人になり、老人による暴力事件、テロが増えてきた。

神と自分の関係を確立していない人はもろい。

 

 

2016年10月26日



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