救われる人と救われない人


1.

1990年、主任牧師が意見を変えて再建主義を認めない方向に向いたので、退職を願い出たところ、長老会を開くという。

出て見ると、長老がおらず、センター教会の牧師数人がいた。主任牧師曰く「長老には、今日の決定に賛同するかどうか電話で聞きます」と。

「え〜〜?」と思った。

これ、陰謀じゃないですか。なぜ全員を集めない?

あの高名な先生がこんなことをするか?

これと同じようなことを次の教会でも経験した。

一般の信徒はこういう裏事情を知らないので、私が異端にでもなったかのように思っている。

私の名誉はいまだに回復されていない。

どちらの教会もカルヴァン派の表看板を掲げているが、前者は非セオノミー、後者はフェデラル・ヴィジョン(行為義認)である。

この主任牧師がつとに尊敬していたのがピーター・ワグナーである。

教会に招いて礼拝で説教させていた。

そのワグナーが、再建主義者になった。

どう思っているのだろうか。

裁判の席上で私が「世界は神の国になる」と言うと、吐き捨てるように「そんなことありえないんですよ!」と言ったが、ワグナーは私と同じことを言っている。

2.

2つの体験から、私は「今のクリスチャンは、神の恐ろしさを知らない」と思った。

神を恐れていないのである。

こういう不正な裁判を開いた彼らは、神を敵に回していることに気づいていない。

もし私が異端の意見を持っているなら別だ。

そうじゃない。

聖書にはっきりと示されていることを述べたに過ぎない。

そして、カルヴァンも、ウェストミンスター信仰告白も、正統派のカルヴァン主義の教会は「律法の現代的有効性」を唱えている。

まともな教会で「旧約律法の本質を現代に適用する」という見解を異端扱いしたところはない。

旧約律法は「神の言葉」である。

神の言葉を「危険だ」と述べることは、神ご自身を危険視するのと同義である。

つまり、仮面が剥がれたということ。

キリスト教というのは名ばかりで、実質は別の宗教である。

セオノミーを危険視する人は、神の敵である。

3.

現在、福音派の教会は「旧約律法は廃棄されたのだから、現代において適用するのは間違いだ」という見解を採用する傾向があるが、ではイエスが「私は律法と預言者を廃棄するために来たのではない」とのイエスの御言葉をどう解釈するのだろうか。


わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5・17)

パウロが「律法も言うとおり・・・しなさい」と言っているが、これはどう解釈するのか。

教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。(1コリント14・34)

「信仰は律法を無効にせず、むしろ確立する」と言っているがどう考えるのか。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

4.

今日、律法は、イエスへの信仰によって「確立」されている。

イエスが律法をすべて守ってくださった。

そのイエスを信じるわれわれも、律法をすべて守ったと神はみなしてくださる。

それゆえわれわれは「信仰によって、永遠の命と報いを得られる」のである。

律法を完全に守ることによってのみ与えられる永遠の命と報いを、われわれは、「イエス・キリストを通じて」得られるのである。

人類は、アダムにおいて失敗した。

アダム族に属する人はみな、生まれながらに失敗者である。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペ2・3)

われわれは、アダム族からキリスト族に所属を変えなければならない。

キリスト族に属するならば、キリストが手にされた合格証を「値なしで」受け取ることができる。

5.

キリスト族に属する条件は、「信仰のみ」である。

行いは不要。

フェデラル・ヴィジョンは、信仰のほかに契約を守ることが必要だと唱える。

契約はキリストが守ってくださったのである。

われわれの務めは「イエス・キリストを主として受け入れ、礼拝する」ことだけである。

「キリストの主権を否定する人も信仰すれば救われるのか」と問う人がいるかもしれない。

そのような人は「信仰していない」のである。

キリスト族への加入条件とは「キリストの主権を認め、キリストがわれわれの代わりに律法を守ってくださったと信じること」である。

これが信仰である。

「クリスチャンになったら御心を無視して自分の欲望にしたがって生きてもいい。神を主として敬う必要はない」というのは、信仰ではない。

だから、自分勝手な掟を作って信者に強制するような教団には「信仰はない」。

聖書的根拠のないことを信者に信じさせているような教会には「信仰はない」。

6.

失敗した場合どうするのか。

罪を犯した場合何をすればいいのか。

「ごめんなさい。キリストを通じて義を適用してください」と祈ることである。

「私を見るのではなく、キリストを見てください」と。

「私が所属する族の長が、合格したので許してください」と。

そして、立ち上がって、努力を開始する。

「努力を開始する必要はない」という人は、「キリストを主としていない」ので、信仰者ではない。

悔いても「改め」ない人は、神の主権を否定し、自分のそれを主張する偶像礼拝者である。

ペテロは罪を犯したが立ち返って努力したので、救われた。

ユダは罪を犯したが立ち返らず、努力を拒否し、自ら命を絶ったので、救われない。

ディスペンセーション主義やアルミニウス主義、リベラル神学など、御言葉に真っ向から逆らうような教えを「頑固に信じ続ける」人は、神の主権を否定しているので救われない。

 

 

2018年10月10日



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