キリスト教再建主義の五条件


このサイトを通じて、クリスチャンのキリスト教認識は、1ランクから10ランクまで一気に引き上げられるだろう。

それくらい目が開かれるサイトである。

もちろん、読者本人に「柔軟な心」がなければならないが。

このサイトの本質は、キリスト教再建主義の五条件にまとめられているから、マスターしてほしい。

1.前提主義

これは、ヴァン・ティルの主張である。

「われわれは何を知ることができるのか。知識の土台は何か。」という疑問に答えている。

われわれが学校で習う学問や知識の前提は、「人間は万物の尺度である」である。

すべてを科学的にチェックしなければならないと。

「それは、科学的に証明された事実ですか?」という問いの前提は、「最終チェックは人間である」である。

だから、神や聖書まで人間が最終チェック者になる。

「神の存在を証明しなければ信じない。」というのは、「人間は最終チェック者であり、神は人間によって審査されるべきだ」という見解である。

ヒューマニズムとは「知識の基盤は人間理性である」という前提に立っている。

人間が神をオーディションする。神は人間の前で歌ったり踊ったりする。

逆転である。創造者を被造物がチェックできるはずがない。

創造者をチェックできる者はだれ一人いない。

創造者は、知識の根源であるから、証明は不要である。

被造物が作られる前に、かつて創造者しかいなかった。

知識は、創造者の3つの位格の間における相互知識だけであった。

だから、この相互知識が基本である。

神の自己認識こそが知識の土台。

永遠の昔からあった知識が本当の土台。

自然も人間も、みな「始まり」があった。

しかし、創造者には始まりはない。

第一原因であるから、始まりはない。

無限の昔からの知識こそが唯一の土台である。

その知識の啓示が聖書である。

だから、聖書が人間にとって知識の土台になる。

聖書を証明することはできない。

聖書は知識の前提であり、証明の対象にならない。

神と聖書は基準である。

基準であるから、証明の対象にならない。

神や聖書を疑う人は、1メートルの原器に向かって「これは本当に1メートルなのか」と問う人に似ている。

「これを1メートルと設定する」とした原器を疑うことはナンセンスである。

同じように、神は無から世界を創造したので、神は基準なのである。

「神は美しいか」という疑問は間違い。

神は美の基準なのである。神からどれだけ離れているかによって、美醜が決まる。

神に近ければ近いほど美しい。遠ければ遠いほど醜い。

前提主義とは、「神と聖書を知識にとって基準とする」という立場である。だから、われわれは、神と聖書を証明しない。それをありのままの命令として受け取る。疑いを禁止する。

この条件から外れることによって、キリスト教はキリスト教ではなくなる。

創造者の啓示を疑い、聖書を「誤りのある文書」と見たリベラリストが聖書を切り刻んだ。

各人が自分の「神様像」を持っているので、その神様像にしたがって聖書を切り捨てた。

神が人間を死刑にしろとなんていうはずがないという反対論者は「人の命を取るものは、命を取られる」という戒めを、「こんなのは本当の神がいうはずがないから、後代の教会人が追加したものだ。だから、削除する」という。

各人が自分の思想によって聖書を選択するので、結局は、「自分教」以上のものにならない。

前提主義を捨てる人は、ことごとく啓示を失う。自分を超えた者からの教えを奪われる。

だから、たいていの場合、それは「陳腐で薄っぺらい新興宗教」にしかならない。

前提主義をとって、「ただひれ伏して神から教えを受けよう」とへりくだる者だけが、真の知識に達する。

聖書は、自分の下において選択するものではなく、丸ごとそのまま自分の頭の上において「見上げる」ものである。

われわれは、前提主義を捨てるときに、知識の土台を奪われる。

 

 

2011年4月25日

 

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