盲目的な愛国主義に陥らないためにもキリスト教を正しく理解しよう
日本人が、グローバリズムの本質に気づきつつあるのはすばらしい。
しかし、同時に、敵の本質を見誤る議論も出始めている。
それは、敵を(1)白人とキリスト教文明、(2)一神教とする動きである。
この間違いについてミレニアムではずっと指摘してきた。
(1)白人やキリスト教文明は敵ではない。
もし白人が敵であるならば、なぜ日本人は、明治以降、ヨーロッパ文明を受け入れたのか。
ヨーロッパ文明とは白人キリスト教文明である。
ヨーロッパにおいて、白人たちが、キリスト教を土台として作り上げた近代科学や近代法制度、近代思想、様々な文明の遺産を日本人は取り入れて、自らマスターしていき、それによって、ヨーロッパ列強に伍していくだけの国力を得た。
日本の保守は「キリスト教は労働を刑罰と考える」というが、近代資本主義の労働倫理を作り上げたのは、ピューリタン主義である。
単なる金儲けのためではなく、労働を神からの召しと考え、自らの救いの選びを確立するものとして労働をとらえたピューリタンたちの労働観が近代資本主義を支えたというマックス・ウェーバーの説が、いわば学問の世界における定説である。
単なる科学技術だけではなく、それを長期的に支える思想的な基盤すらも、ヨーロッパにおいて確立されていたのであり、白人キリスト教文明を単なる「収奪に終始した野蛮な文明」としてしかとらえられないのは、知識人として失格であり、そのような人々が主導する日本文明なるものは、単なる「盲目的自己愛に動かされた文明ごっこ」であり、世界に対して普遍的な価値を提供するだけのレベルにはない。
このレベルにあると判断されたら、世界の中において待っているのは孤立であり、無視である。
私はここで当たり前のことを言う。保守の人々は、よく聞いてほしい。
「白人キリスト教文明をよく学び、それを肯定せよ。それを咀嚼し、自らの血肉とし、それを踏まえたうえで日本文明を築きあげよ。」
(2)「一神教は排他的で戦争ばかりやってきた。その点多神教は寛容で、平和を愛してきた」という説を、かなりの知性の持主までもが言い始めている。
非常に危険な傾向である。
まず、キリスト教とイスラム教は同じ一神教でもまったく別物である。
イスラム教は、一位一神教。つまり、一つの人格を持つ一人の神を信じる。
しかし、キリスト教は、三位一神教である。つまり、三つの人格を持つ一人の神を信じる。
イスラム教においては、統一だけが尊重され、多様性は否定される。
多様性は統一に至る「未熟な過程」として受け取られる。
しかし、キリスト教では、統一も究極であり、多様性も究極である。
なぜならば、神は永遠に3人であると同時に一人でもあるから。
聖書において、神はご自身に似せて人間を創造され、男と女に創造された。
そして男と女は、互いに個人であるが、結婚契約によって一人になる。
つまり、存在論的には複数だが、契約的には一人である。
それゆえ、神も同じように存在論的には複数だが、契約的には一人である。
神は3人おられる。その3人が契約によって一人の「法人」として存在する。
だから、「一神教だから一つしか認めない。排他的になる」などという考え方は間違いである。
神は、一つの法則に基づいて、多様な世界を創造された。
神にとって、宇宙に働く法則は統一されている。時間と場所において異なる法則が働いているわけではない。
神が統一的に世界を創造されたので、21世紀に日本で発見された科学法則が、30世紀にアフリカで適用されると期待できる。
多神教の場合、時代や場所によって神が異なる可能性があるので、統一を追求する科学に妥当性を与えることができない。
だから、一神教のもとでしか自然科学は長期的に発展しない。
キリスト教の場合、神は多様でもあるから、多様性を尊重し、追究する人文科学にも、長期的な発展の土台を提供できる。
「多神教は寛容で、平和を愛する」というような考えが間違いなのは、古代から多神教の帝国が戦争に明け暮れた事実を見れば明らかである。
アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシア、ローマ、・・・
多神教の帝国がいかに戦争好き、侵略好きであったか。
以上、日本の文化人、知識人が、保守化するにつれて、盲目的な愛国主義に陥らないためにも、キリスト教に関する知識を正しく身に着けることを強くお勧めする。
2016年10月17日
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