聖書は前提であり疑いから出発することは罪である2


信仰が幼いクリスチャンは、この点で失敗する。

ノンクリスチャンから「本当に聖書は正しいの?イエスが水の上を歩いたとか本当に信じているの?」と聞かれた場合に、信仰が幼いクリスチャンは、「そう言われればそうかも・・・」と考える。

これは、信仰に大きな穴が開いた瞬間である。

サタンはその大きな穴に火矢を撃ってくる。

心の中に火矢が入り、中を焼いてしまう。

疑いの炎によって、心の内部はぐちゃぐちゃにされてしまう。

絶望に陥る。

すべてがむなしくなり、やけくそになる。

これだけならまだいい。

サタンは最終的にクリスチャンがイエスを否定し、自殺にまで持っていこうとする。

信仰を正常に保ち、自分の心の健康を守るために必要なのは、サタンが撃ち込む火矢を防ぐ「大盾」である。


これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。(エペソ6・16)

心に穴を開けようとサタンは常に狙っている。

そのきっかけとして「中立」を持ち出すのだ。

「君、信仰でものを判断していくのは偏っているよ。判断を中立にしないと」ともっともらしく近づいてくる。

われわれに与えられているのは、「この木の実を食べてはならない」という命令である。

「この木の実について、食べてよいのかどうか調べなさい」とは言われていない。

神はわれわれに「神の言葉を前提として受け入れよ」と言われている。

つまり、神の言葉は命令なのだ。

軍隊で上官の命令を疑うことが許されないように、クリスチャンも、神の言葉を疑うことは許されない。

「疑いなさい。中立になりなさい。」というのは、悪魔の誘惑である。

ちょっとでも隙を与えると、心をめちゃくちゃにされてしまうので注意せよ!

 

 

2012年8月10日





 

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