自分を他人に合わせるくらい馬鹿らしいことはない
(1)
NHKが新型うつ病の特集番組を流していた。
従来のうつ病が、まじめな人が強いプレッシャーの中で発生するのに対して、新しいそれは、一見すると怠け病のように見えるほどそれほど追い詰められている印象を与えない。
教育評論家が、この原因を90年代の教育にあると述べた。
当時、新学力観なるものがはやったそうだ。
点数を多く取った生徒が成績がよいわけではなく、授業態度、やる気、協調性などの様々な能力を総合して成績がついたという。
以前は、80点が4、100点が5といった単純なものさしで決まったが、この考え方では、100点が4、80点が5を取ることがあったという。
こうなると、生徒は、学力に集中するのではなく、他人の目を恐れるようになったという。
「空気を読む」ことがとりわけ重視された世代が今うつ病になっていると。
そういえば、90年代に学生をやっていた人々、団塊ジュニア以降は友達づきあいを最優先すると感じた。
とにかく同性の友人から嫌われたら大変だと騒いでいたように思う。
われわれの世代から見たら、実に異常だった。とても気の毒に思う。
私は、こういう症状があるならば、聖書を信じなさい、と言いたい。
この世界に流れている法則は、「契約を守れば祝福され、破れば呪われる」というものしかない。
「人を恐れると罠に陥る。しかし、主に信頼する人は守られる」と聖書にある。
人を恐れる傾向のあるこれらの世代の人は、この御言葉をよくかみしめてほしい。
人間は救ってくれない。
人間が救うのではなく、神が救ってくださり、助ける人をあなたのところに連れてこられるのだ。
救いの手を人間に差し伸べるのではなく、神にまず向けなさい。
順番を間違うと悲劇的な結果になる。
神に救いを求めて、待つ。
待つことができないで慌てて人間に頼ると、ご破算だ。
この訓練を積む以外に、今日の新型うつ病から解放されることはない。
(2)
成績はあくまでも、点数で決定すべきだ。
いろんな要素が入ってくると、何を努力してよいかわからなくなる。
もちろん、社会とはこういう場所だ。
成績がよいだけでは、やっていけない。
しかし、自分を失って、人の目とか世間体を気にして生きていると、自分が誰だかわからなくなる。
一番正統的でなおかつ楽な生き方は、「まじめにコツコツやるべきことをやっていれば、評価はいずれついてくる」と考えて、人間の目を無視して、マイペースを貫くこと。
(3)
私を理解してくれる上司は一人もいなかった。
両親を含めて、私が考えていることを理解してくれる大人はいなかった。
このようにネットで配信する中で、賛同者が現れ、理解者を与えられた。(これはすべて神の恵みである。)
もし私が従来のシステムの中で評価を気にして生きたならば、自分のやりたいことができないで一生を終えたことだろう。
世間体だけは保てるが、それは私の人生ではなかった。
様々な犠牲は払った(世間的評価は長い間得られないだろう。だから普通の人ができることができなくなる)が、自分の生まれてきた意味を表わすことはできた。
これは非常に幸せなことだと思う。
(4)
テレビで「今、これが大流行しています」と叫んでいるが、操作したいからだ。
ブームを作ってものを売ろうとしている。
流行に乗ったり、世間が定めた基準でものを評価すると、自分を失って振り回され、疲れ切って、新型うつ病になる。
流行とは、自分が作るものだと考えたらいい。
自分が今一番すごいと思うことをやって、それに確信があって、続けていれば、いずれ理解者が現れ、大きなうねりになって流行となる。
日本人は、これまで米国ではやったものをありがたがってきた。
キリスト教も、米国に留学してはくがついた。
馬鹿らしい。
本を読んだほうがまし。
学校で学ぶことは非常に少ない。
問題は、学校を出た後に、どれだけ深めて広めていけるか。
だから、誰がウェストミンスターを出ようが、ハーバードで博士号を取ったとか、どうでもいい。
要するに、その人が何を考え、何を発言するか、だ。
その博士様が凡庸なことしか考えられないなら、周囲のもの、新しいものに興味を持たず、勉強し続けていなければ、私は話す値がない人ということで自分の知人の枠の中から追い出す。
私は「現状維持」型ではない。
だから、儀式が苦手である。決まりきったことを決まりどおりにやることが苦痛である。
何よりも自由を愛する。
(5)
新型うつ病の人は、従来のうつ病と違って、旅行にいったり活動的なのだという。
しかし、職場に行くと症状がでるらしい。
つまり、利害関係で成り立つ社会の中のドライな人間関係の中で期待をされ、期待に応えられないと、罰を受けるのがいやなのだ。
2つしかないと思う。
そういうコミュニケーションを必要としない職場か仕事を探すか、自分を鍛えて、人の言葉とか態度に動かされない人間になるか。
私の目標は、「環境にまったく左右されない人間になること」である。
周りの状況に動かされない。
嵐の中で舟の上で寝ておられたイエスのようになること。
信仰によって完全な自信をつけること。
弱いということは、人生の可能性を狭くするということ。
人が怖い人は、積極的に人の前に出ることだと思う。
いずれ慣れて強くなるでしょう。
人が自分を嫌っても気にしない。
自分と話が合う仲間とうまくやっていけばいいのだから。
「誰とでもうまくやるべきだ」などという学校教育の理想というのは嘘だ。
学校がいやなら、自分で勉強してもいいじゃないか。
とにかく自分を他人に合わせるくらい馬鹿らしいことはない。
(ただし、わがままはだめ。自我を貫いて人に迷惑をかけるとかは別の問題である。)
2012年5月11日
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