あなたは愛されるために生まれた?
私たちもみな、…生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2・3)
「君は愛されるために生まれてきた」なる標語が教会で見かけるが、聖書の主張はまったく逆である。
聖書にしたがった標語に変えると次のようになる。
「君は愛される値のない子として生まれてきた」
今の教会の前提はヒューマニズムである。
ヒューマニズムとは、「人間が主である」という教えである。
だから、神は人間に奉仕する存在として理解され、「神は人間を愛するべきだ」と結論される。
人間を楽しませるため、幸せにするために神は存在し「なければならない」。
聖書はまったく逆のことを教えている。
人間は、神を楽しませるため、幸せにするために創造された。
罪を犯した人間は、神を不幸にするので、愛されるに値しない。
神の義を満足させるために、あわれみを受けることなく滅びなければならない。
ヒューマニズムと聖書では、ハードルの設定が違うのである。
障害物競争において、ヒューマニズムは、1メートルの高さに設定するが、聖書は1000キロメートルである。
1000キロメートルの高さのハードルを1億枚超えなければゴールできない。
つまり、不可能なのである。
人間は、愛されるどころか、憎まれているのである。
イエス・キリストの犠牲が素晴らしいのは、このどうしようもない「生まれながら憎まれている子」であったわれわれのためにご自身を犠牲にして救ってくださったというところにある。
イエス・キリストがこのとんでもないハードル競争をクリアしてくださり、われわれの身代わりにゴールしてくださった。
そして、われわれもそのゴールを切ったとみなしてくださる。
だから、恵みなのだ。
「あなたは愛されるために生まれた」みたいな思想では、「神はわれわれを救うのが当然」レベルの感謝しかできない。
愛されるに値しないという自覚から出発しない限り、救いを感謝はできない。
だから、今のヒューマニズムに毒されている教会は、イエス・キリストの犠牲を本当には感謝していない。
2014年10月4日
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