虚偽を愛する集団と別れることは罪ではない


森友問題の初期に、籠池を偽装保守の詐欺師と述べたら、「そんな人じゃない」と噛みついてきた「クリスチャン」がいた。

今、私の発言が間違っていなかったことが明らかになった。

あの後、彼は、他の掲示板に私の悪口を書き込んだりしてきた。

逆上した福音派のクリスチャンの行動を見てしばしば思うこと。

なんで神を恐れないの?

人の悪口を書いたら、自分に呪いがかかるってなぜわからないの?

匿名でだませるのは人間だけ。

神はすべてをご存じであり、何を書いたかすべて記憶されている。

罪は、バネを縮める行為。

縮めれば縮めるほど、元に戻ろうとする力が強く働く。

縮めたら戻ってくることをなぜ理解できない?

とくに御言葉の活動をしている人に対する攻撃は、跳ね返りがキツい。

そのくらい大人なら理解してないと。

牧師や伝道者の悪口をばらまいていると、死にますよ。

私の周りで何人か死んでる。

牧師や伝道者が何か不法な手段で復讐をしたら、喜ぶべき。

なぜならば、神からの復讐がなくなるから。

牧師や伝道者が黙って耐えているなら、神が復讐されるから、とんでもないことが起きる。

私は復讐は絶対にしない。

過去に二回、教会で裁判にかけられたことがある。

どちらのときにも、「この牧師は神を恐れてないんだなあ」と思った。

その際に、ある幻が与えられた。

一つ目は、崩壊の幻。

文字通り四分五裂した。

そのとき、同時に「クリスチャンへの裁きは、ノンクリスチャンへの裁きに先立つのだから、日本も裁かれるだろう」と思った。

バブルが崩壊し、失われた20年が始まった。

二つ目は、裁判の席で「この建物から追い出される」という幻。

文字通り、家賃が払えなくなってそこから追い出された。

誰かに復讐するなら、裁判を利用しないほうがいい。

なぜならば、裁判とは「神を裁判官として呼び出す行為」だから。

自分の恣意的な判決を下せば、その判決は自分をも裁くことになる。

「単に口頭での訓戒で済むものを、裁判まで開いて有罪にした」ら、どれだけの恐ろしい刑罰が待っているのか。

どちらも異端的な見解を持っている現状(前者はセオノミー(神の法)を否定し、後者は行為義認を主張)から考えると、この二つの教会の裁判は「正しい教えを拒絶する行為」であったとわかる。

私に対する憎悪は、神の教えに対する憎悪だったわけだ。

つまり、内部には異なる霊があったということ。

異なる霊から見れば、セオノミーや信仰義認を唱える私の霊は、敵なのである。

内にある霊が邪悪なので、正統派の信仰を毛嫌いするのだ。

もし私が、ポスト・ミレを携えて、どこかの教会に出向いていけば、拒絶は目に見えている。

拒絶だけではなく、逆上して裁判が始まるだろう。

そして、その教会の背神が衆目にさらされる。


わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」(ルカ12・49-53)

イエスが「分裂」のために来られたように、われわれも、分裂のために活動する。

真理は、虚偽の集団の中に分裂を巻き起こす。

虚偽を愛する集団と別れることはわれわれにとって罪でもなんでもない。

むしろ、イエスの働きに参加することである。

 

 

2018年3月19日



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