ベンジャミン・フルフォードや飛鳥氏を招いてFM番組を流していた女社長が詐欺罪で逮捕されたそうです。
振り込ませた額が巨額だったそうで。。。
だめです。金目当てで、こういう働きをすると。。。
日本人は、マモンの偶像にとりつかれてしまった。
どうしてお金ばっかりになるかというと、この地上世界だけだ、と考えるから。
聖書によれば、この地上世界は、永遠の世界に入るための準備でしかない。
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。(ルカ16・9)
ここで「不正の富」というのは「不義とか犯罪をして稼いだ金」ではなく、「はかない富」という意味。
なぜならば、「不正の富」は「まことの富」と対比されているから。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。(ルカ16・11)
永遠の住まいに行けば、「まことの富」が待っている。
今われわれが持っている富は、「まことではない富」つまり「はかない富」、すぐに消えてしまう富。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。(マタイ6・20)
この世の富は、「虫やさびがつく富」「泥棒に盗まれる富」。
つまり、失ってしまうもの。
しかし、天の宝は、失うことがない。
永遠に所持することができる。
だから、この世で富を蓄えるのではなく、永遠の世界に蓄えなさいと。
「じゃあ、この世では富を手に入れるべきではないのか、貧乏がいいのか」というとそうではない。
「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」。
この世の富を利用せよ。
この世の富を捨てるのではなく、利用せよ。
彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
この世の富で永遠の住まいにつれて行ってくれる友を作れ。
愚かな人は、永遠の住まいにつれて行ってくれない友のために金を使う。
つまり、この世で終わってしまう友。永遠の世界に行く準備をしてくれない友。
そんな友のために使うなと。
つまり、われわれは、常にこの世の富を、永遠の世界でどのような報いとなって返ってくるかを念頭に置いて使えということ。
イエスは祈るときに、人に見えないところで祈れと言われた。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6・6)
善行をするときに、人に見せるためにするなと。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。(マタイ6・2)
なぜ「人にほめられたくて」善行をしてはならないかというと、「すでに自分の報いを受け取っている」から。
つまり、「この世で報いが完結してしまうようなことをするな」ということ。
いつも「自分の行動が、永遠の世界にどのように反映するか」と考えながらことを行えということ。
イエスは、クリスチャンの富に対する心構えをこのように教えられた。
「永遠の世界?関係ないよ。この世だけだ」と考えることは、悪の根である。
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(1テモテ6・10)
ここから「金銭を持つことは悪」だと解釈してはならない。
「金銭を愛する」こと。
つまり、金銭を自己完結的に追い求めることが禁止されている。
金銭を地上だけの目的で所有することを求めてはならない。
聖書は「清貧を貴ぶ」ことを教えていない。
貧困のままならば、神の国は成長しない。
自分の所有欲のために求めるのではなく、神の国のため、自分の永遠の生活のために求めるべきだ。
金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13・5)
だから、ある意味において、金銭が多く与えられたら、それを神の国の発展のために使って、自分の所有物については、今ある持ち物で満足するべき。
次々と所有欲が出ると、知らないうちに神から離れることになる。
神を忘れた生活をするようになれば、堕落が始まる。
金銭に縛られて、この世に拘泥するようになると、「信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通」すことになるので注意が必要だ。
今の日本人は、かつての姿ではなくなった。金儲けに走って、その結果、自分を刺し通すようになった。
目を覚ますべきである。