傲慢の鎧をすべて脱ぎ捨てるまで、神からの試練は続く


あらゆる事象を考慮すれば、聖書を信じるしかない。

ヒューマニズムの実験はことごとく失敗した。

神戸酒鬼薔薇事件の犯人の少年に対して、少年院において「更生」が行われた。

少年は、母親の愛情がなかったので、異常な精神になったから、もう一度人生をやり直してあげよう、ということで、疑似家族を作ったという。

母親代わりの人が愛情を注いだ。

この救済にかかる多額の費用はすべて無駄である。

故意の殺人を犯した者を生かしておくことは、聖書において厳禁である。


しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。(出エジプト記21・23)

あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。(申命記19・21)

神が「あわれみをかけるな」という人をあわれむことは、罪である。

神が「いのちにはいのちを与えろ」と言ったのに、生かしておくならば、それは罪である。

中国は犯罪者を教育によって変えることができると考えて、死刑制度を廃止し、教育刑にしたが、後に公開処刑まで行った。

今は死刑制度がある。

失敗したのである。

人間の知恵に頼ったが失敗した。

誰でも神を超えるならば、傲慢の罪を犯した。

傲慢のゆえに失敗したとしても、神はなぐさめてはくださらない。

神のご好意を受けるには、悔い改めしかない。

悔い改めとは、「あなたのおっしゃることにいちゃもんをつけました。ごめんなさい。これからは、あなたの言われるとおりにします」と言って実行することだ。

そうすれば、われわれは再び恵みを受けることができる。

聖書に帰るしかない。

聖書に帰ろうとわれわれが本当に思うまで、神は試練を与え、練り続けられる。

傲慢の鎧をすべて脱ぎ捨てるまで、神からの試練は続くだろう。

 

 

2014年10月1日



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