アダム以外の別系統の人類を想定することは異端である


1.


なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。
よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。
だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。(2ヨハネ1・7-11)

「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。」

キリストの教えとは、何か。それは、「イエス・キリストが人として来られた」という教えである。

当時「イエス・キリストは神であるが、人間ではなかった」と説く人々が教会に入り込んで信者を惑わしていた。

イエス・キリストは、神であり、同時に、人である。

この2つの属性が一人の人格のうちにあった。

ウエストミンスター小教理問答には次のように書かれている。

第21問 贖い主キリスト

問: 神の選民のあがない主とは、どなたですか。

答: 神の選民の唯一のあがない主は、主イエス・キリストです。このかたは、神の永遠の御子でありつつ人となられました。それで、当時も今もいつまでも、二つの区別された性質、一つの人格をもつ、神また人であり続けられます。

なぜキリストは人でなければならないのか。

以下の解説に完全に同意する。

キリストの二性一人格

(1) キリストは神です(ヨハネ20:28参照)。

(2) キリストは人です。疲れ、悲しみ、悩みなど人の弱さを負っておられます。

(3) キリストは神と人の二つの性質を持ちつつ、一つの人格の方です。普通の人は魂と肉体で一つの人格ですが、キリストは、神性と人性(魂と肉体より成る)で一つの人格であられます。

二性一人格の救い主の必要

(1) 人を代表して罪を背負い、十字架で神からの罰を受けて下さる方は、人でなければなりませんでした。

(2) 全人類が永遠に償い続けるほかない罪責を、お一人で、十字架の限られた時間の中で、償い尽くすことができる方は神でなければなりませんでした。

(3) 人の代表として掛かられた十字架が、神である方の十字架として無限の価値を持つために、救い主は一人格の内に神性と人性を備える必要がありました。

https://www.jesus-web.org/westminster/west_021.htm


アダムは、全被造物の代表として、神と契約を結んだ。

もし戒めを完全に守り通すならば、アダムだけではなく、全被造物が、永遠の命と不滅の栄光を与えられるはずであった。

しかし、アダムが失敗したため、アダムだけではなく、全被造物も滅びに落ちた。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。(ローマ8・19-22)

被造物は「滅びの束縛」の中にいる。

「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみ」をしている。

それは、自分が原因ではなく、人間の罪によって起きた。

カルヴァンは注解の中でこのように述べた。

パウロは、被造物がいかに、希望を持ちつつ、虚無に服しているかを示している。イザヤが証言したように、また、ペテロがさらにはっきりと示したように、被造物はいつの日にか解放されるからである。われわれは、自分がいかに恐ろしい呪いを受けるに値する存在であるか、反省すべきである。というのも、それ自体、責められるべきところがない全被造物が、地上においても、目に見える天においても、われわれの罪のために刑に服しているからである。被造物が滅亡の運命にあるのは、己の罪のせいではない。人間に対する有罪宣告は、天にも地にも、あらゆるものに刻み込まれている。どのように卓越した栄光が神の子らに与えられるのかは明らかである。すべての被造物は、この事実を豊かに示し、輝かせるために、更新されなければならない。

(Calvin's Complete Bible Commentaries)

https://www.amazon.com/Calvins-Complete-Commentaries-John-Calvin-ebook/dp/B00HAACYXE

被造物は、「神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」。

なぜならば、契約的代表者である人間が滅びから解放されると、契約の中にいる被造物も解放されるからである。

キリストが受肉して人間にならなければ、人間だけではなく、被造物も永遠に解放されない。

キリストは人間の罪とそれによって引き起こされた全被造物の堕落の責任を取って、十字架上で死なれた。

キリストは、被造物を代表するためにも、人間にならなければならなかった。

2.

現代の科学にしたがって、われわれが属する人類とは別の人類(ネアンデルタール人など)の存在を信じるならば、間接的にイエスの御業を否定することになる。

アダムにあって、人類と全被造物は、契約的に一つなのである。

神は、彼を契約的代表として創造された。

もし現生人類に属さない、何かほかの生物から進化した別系統の人類がいた場合、この世界において「キリストの贖いが届かない存在がある」ということになる。

なぜならば、彼らは「人」であり、善悪の判断を行い、それゆえに神に対して罪を犯す可能性があるからである。

それとも彼らは罪を犯さなかったのであろうか。

では、なぜ死んだのか。

罪を犯さない人がなぜ死んだのか。

死は、罪の結果であると、聖書にはっきりと記されている。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2・17)

罪から来る報酬は死です。(ローマ6・23)

ネアンデルタール人が罪を犯したならば、必ず死ぬが、その罪の贖いはない。

すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。(ローマ5・19)

ここで「ひとりの人」とはアダムである。

アダムの罪によって全人類が罪人となった。

キリストは、このアダムの代わりに律法を完全に守り、アダムの契約の中にいる人々、つまり、アダム族の人々を義とされる。

ネアンデルタール人の贖罪は、誰がするのか。

彼らの一族は、贖罪の対象外である。

しかし、聖書は「天地にあるすべてのものは、十字架の血によって神と和解された」と教えている。

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)

ネアンデルタール人のような別系統の人類を認めると、イエスによる万物の贖いを否定することになる。

これは、実質、「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない」行為に等しいので、はっきりと異端と見なしてよいと考える。

 

 

2019年10月3日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net