愛と法を対立概念にしてはならない



旧約の律法もパウロの教えも「福祉」「弱者(在留異国人含む)救済」のあるべき姿、そして双務責任をきちんと説いているのに。

なるほどディスペンセーショナリズムで「時代は変わった」としてしまえば、クリスチャンもノンクリスチャンも『ルール無用のやりたい放題、ケジメなし』になるわけだ。

律法研究がないと「愛」のひとことで、無法者のわがままが放置・助長されてしまいます。

『愛』の定義
なんのために『法』(ルール)があるのか
を誰も分かっていないのですね。
「愛/恵み」と「法」が対立概念ではないことくらい、ちょっと冷静に考えればノンクリスチャンでも分かるはずですのに。

旧約聖書を廃棄されたものと実質考えるディスペンセーショナリズムの影響で福音派の教会は、法を毛嫌いし、愛と法を対立概念にしてしまいました。それで、訓練や規範なしの無脊椎クリスチャンができた。ノンクリスチャンのほうが規範意識があるという異常な状況が生じています。

 

 

2016年6月25日



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