1.
自分も孫がいる世代になってしまった。
人生は短い。
パソコンを始めたのが33歳。
ニフティの掲示板で激論を戦わせていたのが37歳。
初期の議論はバックナンバーにある。
あっという間の20年であった。
こう振り返ると、人生は神の計画によって進むのであって、自分の願望によるのではないとわかる。
幸い、この世界で一番重要な仕事―つまり神の国建設―をさせられてきた。
一度しかない人生を有意義に用いることができて本当に幸運だと思う。
永遠の報いとなって残る仕事は、神のためにやったことだけである。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25・20-21)
いくら善行を行い、人々のために尽くしても、神を無視した人生には、報いはない。
福音派の教会では、「献身者にならないと報いは受けられない」と教えられたが、聖書はそのようなことは言っていない。
どのような仕事であっても、神の栄光のため、御国のためにやれば、報いとなって永遠に残る。
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。(ルカ16・9-11)
「不正の富」とは「まことの富」と対照的に置かれているので、「現世の富」のことを指しているとわかる。
「現世の富」は、「永遠の住まいに迎え」られるためにある。
神が見ておられるのは「小さい事に忠実」かどうかである。
「現世の富」は、「あの世の富」と比べれば小さい事である。
現世の富をどう使用したかによって、あの世の富を任せられるかどうかが判断される。
自己満足ではだめなのである。
「忠実さ」が問われる。
あくまでも人生を神のために送るかどうか、が問題なのであって、単なる善行では意味がない。
もちろん、社会でよい働きをすることは「人間的には」よい。
しかし、永遠の報いという観点から見ると、意味がない。
視線をつねに神に向けているかどうか。
いつも「神の幸せ」について考えているか。
人間的な善行は、視線が人間に向いている。
しかし、クリスチャンの善行は、たとえそれが人間に対するものであっても、神に視線を向けなければならない。
来世は、現世のすぐ隣にある。
明日死ぬかもしれない。
神の審判はすぐそこである。
死ぬ直前に「ああ、しまった!人生を自分や人間のために過ごしてきた!」では遅い。
1000億の遺産を残した人も、無一文で死ぬ人も、神のために生きなかったら、来世では無産者である。
神の国のために活動している人は、才能や資産に応じて判断される。
多く与えられた人は多く要求される。
主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12・47-48)
来世では、裁きが待っている。
才能のある人は、その才能を神の国のために多く使用しないと、多くむち打たれる。
資産のある人は、その資産を神の国のために多く使用しないと、多くむち打たれる。
貧困な国のクリスチャンよりも、裕福な国のクリスチャンのほうが厳しく裁かれる。
だから、来世では、現世の秩序が逆転する可能性が高い。
さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。(ルカ16・22-25)
2.
神の国のために働いている牧師や教職者の足を引っ張るようなことをやって、どうして地獄に落ちないだろうか。
「私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
聖書では、地獄はまだましな場所である。
本当に怖いところは「火の池」である。
ルカのたとえの金持ちがいたところは、地獄である。
なぜならば、まだイエス・キリストが昇天されていないからである。
イエス・キリストの昇天以前は、人間は、黄泉の中の「なぐさめの場所(ラザロがいた場所)」か「地獄またはハデス(金持ちがいた場所)」のいずれかに行った。
キリストが十字架後、黄泉に下って「なぐさめの場所」にいた旧約時代のクリスチャンたちを復活させ、ともにパラダイスに上られた。
ちなみに、紀元70年以降、クリスチャンは死後復活して、ただちにパラダイスに上る。
紀元70年にイエスが復活した人々を伴って再臨されたときに、当時生きていたクリスチャンも復活して携挙された。
地獄にいた人々は、その時は復活せず、クリスチャンが地上を支配する期間(千年王国)が終わるまでそのままそこにとどまる。
その後、永遠の世界が到来すると、復活して、火の池に投げ込まれる。
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。(黙示録20・4-5)
ハデスや地獄は、魂の苦しみの場所であるが、火の池は魂だけではなく、体も苦しむところである。
神の国の発展を妨害した人々は、その行いに応じて裁きを「永遠に」魂も体も受け続ける。
3.
こういう話をしても、バカにして、信じない人は、御霊を受けていないのである。
クリスチャンになって御霊が内住すれば、死後のことについて「超自然的に」理解できるようになる。
死後のことに無関心なのは、御霊を受けていないからである。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。(ローマ8・5)
聖書が教える来世や終末は、御霊を受けていない人には理解できない。
だから、バカにするのである。