死刑制度に反対するクリスチャンは別の宗教の信者である2


麻原の死刑実行に反対する牧師たちは、対神関係と対人関係を混同している。

対神的には、イエスを罪のいけにえとして捧げることによって(つまり、十字架は自分の罪のためであったと信じることによって)「完全に」赦される。

なぜならば、イエスの血以外のいかなるものも罪の代償にはなりえないからである。

しかし、これによって対人的責任が解消されたわけではない。

対人的には、損害を与えた程度に応じて償いをしなければならない。

「目には目」。

「神を信じれば、対人賠償をする必要はなくなる」と考えている人が多い。だから、死刑に反対する。

聖書では、他人のものを盗んだら、最大でその5倍をもって償えとある。


牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。
もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かに見つかったなら、それを二倍にして償わなければならない。(出エジプト記22・1, 4)

被害者に盗んだものと同等のものを返すのは、最低の義務。盗んだものを失ったことにより被る被害者の損失はその盗まれた品の価値を超えている。

精神的なダメージ、泥棒を見つけるのにかかった費用などが含まれるので「倍返し」が普通である。

このような対人的な法律がなければ、社会は崩壊する。犯罪のほうがうまみがあるような社会は病んでいる。

聖書の対人律法は、被害者中心主義なので、もし被害者が償いを要求しない場合、賠償金の支払いは不要。

被害者は、加害者に対して「同害を最大限度として」刑罰を要求できる。

目を傷つけられたら、相手の目を損なうことができるが、「購い金」で代えることも可能。後遺症の程度に応じた額を請求できる。

ただし、故意の殺人については別。

聖書では「故意の殺人者は例外なく処刑せよ」「購い金を受け取ってはならない」とある。

聖書をよほど曲解しない限り、死刑反対の結論はでない。

 

 

2018年7月7日



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