4.教育と家族(聖書律法綱要)2


第三に、法律はきわめて実用的なものであるため、ヘブライの教育は非常に実用的であった。一般に、息子に法律と商売を教えなかったり、働く能力を身に着けさせない人は、馬鹿か泥棒に育てる人だと考えられていた。有名なガマリエルの息子シメオンは「学ぶことではなく実践することが、重要である」と言った。

ヨセフォスは『アピオンへの反駁』において、ヘブライ人とギリシャ人の教育を比較してこう指摘した。「ギリシャの教育は、実践から離れ、抽象や理論を重んじるようになったが、聖書の法には、原則と実践の間に健全な連関がある」。

第四に、聖書的な教育は、家族中心主義であり、親や子どもの責任を強調するので、責任感のある人々を育てる。「必要に応じて両親を世話し、子供を養う責任があり、能力の限りをつくして、物質的富と道徳的な訓練及び模範を相続として遺すべきである」との教えのもとで育てられた人は、責任に対して非常に敏感である。そのような教育制度では、国家ではなく、家族が責任を持つ主体である。家族の中において、男性は、有能で、将来を見据えて準備ができるリーダーであり、妻は夫を助ける有能な助け手とならねばならない。家族中心主義の教育が否定されると、男性からは男性らしさが失われ、女性は、単なる男性にとっての浮ついた嗜好品か、男性にとってアグレッシブなライバルのいずれかになる。自らの責務を失った男性と女性は、安定を欠き、責任に対するまっとうな感覚を失う。現代の教育において、知識は抽象化される。専門家は、自分の専門分野以外について何も知らないことを誇りとしており、己の知識を他の分野に関連付けることを拒否し、しかも、このような態度を名誉の勲章と考えている。社会との関係性を模索する学者がいたとしても、それは超越的な原則に基づくものではない。そのため、結果は、価値体系を持たない社会的過程への埋没(immersion)でしかない。現時点で人格化した構造(incarnate structure)になるプロセス以外、すべては、無意味なものとして切り捨てられる。

現代の教育において、国は教育者であり、人間ではなく国が責任のある機関であると考えられている。基本的な教えが国家に依存しているがゆえに、このような視点は、生徒を破壊するように機能する。道徳的な決定と行動は、個人や家族ではなく国家に求められている。個人の倫理的役割は、国家に同意し、その前にひれ伏すことである。控えめに言っても、国家の教育は暗に反聖書的である。聖書がカリキュラムに含まれている場合であっても、そのことが言える。

 

 

2017年6月15日



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