伝道と営業を混同するな


ときどき「子供を育てたことがないのに聖書の教育論を語るな」という意見を聞く。

逆に経験によって変わるような「聖書の教育論」なら不要である。

そんなもの学ぶ必要はない。

聖書の教理は、不滅の神の御言葉に基づく。

だから誰が伝えても同じ内容にならなければならない。

伝える人間が何を体験したかなんて関係ない。

わかりやすさや説得力に差は出るかもしれないが、内容に差はない。

また「俺は、伝道者のあんたに惚れ込んだ。だからキリスト教を信じる」っていう人は、本当のクリスチャンではない。

クリスチャンとは「自分は罪人で、イエス・キリストの贖いがどうしても必要だ」と痛切に感じている人。

それを伝えている人間など目に入らないくらいに霊的な危機感を持っている人。

伝道と普通の営業活動とはまったく種類が違う。

営業の場合、自分が相手に好かれるか嫌われるかは重要だが、伝道の場合、相手にどう思われようが関係ない。

(ただし、無用な躓きを与えないように、伝道者は自分自身について「親切で、感じがいい人間」になるように努力すべき。)

教えの内容の受容に関する決定権は、伝道者にはないから。

聖霊が働くかどうか。

聖霊が働けば救われるし、働かなければ救われない。

選ばれているなら救われるし、選ばれていないなら救われない。

伝道集会で、感動を呼び起こすような話をし、感傷的な音楽が流れる。

こういう伝道集会で決心した人は、教会にとって障害になりえる。

なぜならば、救いというのは状況に関係なく唐突に与えられる類のものだから。


風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3・8)

人間的な心理操作や催眠効果によって生み出されたのは「人造クリスチャン」であって、内側に聖霊がいない。

内側に聖霊がいなければ、実質ノンクリスチャンであり、肉の人。

そういう人々が教会に増えると、教会に霊的な判断ができなくなる。

世俗的な行事をやったり、牧師のメッセージが世俗的なエンターテインメントになったり。

牧師を批判するなら「あなたはまだ若いからわからないでしょうけど」とか「世間での経験が少ないから」とかはご法度。

「あなたのメッセージは聖書的ではない」ならOK。

 

 

2016年10月4日



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