予定論の否定は人間教である


予定論を否定する動機は「人間に栄光を残しておきたい」と言う願望である。

しかし、残念ながら、人間には栄光は残っていない。

なぜならば、アダムが善悪の知識の木から取って食べたからである。

神はあらかじめ「食べると死ぬ」と警告された。

そのとおりに、アダムは死んだ。

肉体的に死ぬ前に霊的に死んだ。

アダムは、聖霊を失ったので「自分で自分を救う力をまったく失った」。

アダムは「霊的に完全にボケた」。

クリスチャンになってわかることは「それまで思いもつかなかったことを理解することができるようになた」ということである。

クリスチャンになると、霊的な真理に目覚める。

それまでちんぷんかんぷんだった聖書が読めるようになる。

次々と目が開かれる。

自分が罪人であり、地獄に行くべき堕落した存在であると気づく。

ということは、裏返せば「クリスチャンになる前は、盲目だった」ということである。

クリスチャンになる前は、霊的に死んでいたのである。

ノンクリスチャンに霊的なことを語っても、理解してもらうことは不可能である。

なぜならば、ノンクリスチャンは「霊的に死んでいるから」。

ノンクリスチャンには、自分を救いに導く力はないのである。

では、どうやってノンクリスチャンがクリスチャンになるのか。

神が一方的にノンクリスチャンを復活させてくださるのである。

自分で少しも期待していなかった「クリスチャンになるという願い」を一方的に与えてくださるのである。

「救われたい」という願いを与えてくださるということは、死人を復活させたということ。

つまり、われわれは、クリスチャンになる前にすでに「復活している」のである。

海底に沈んで完全に死んだ状態にある人が、溺れて救いを求めて騒ぐ状態になるには、「命を与えられる」必要がある。

神は、「救いについてまったくいかなる関心もなかった」人間を、救われたいと言って騒ぐ状態に復活させてくださるのである。

だから、予定以外にない。

神の側であらかじめ決定されていなければ、われわれは、救われることはまったくない。

自分で自分を救う力はわれわれにはないのである。

それゆえ、われわれには栄光はまったくない。

救いは、一から十まで全部、神の側のイニシアチブによって実現する。

「私が信じてあげなければ、神も救うことはできなかった」などという考え方がいかに傲慢かこれでおわかりだろうか。

予定論の否定は、人間教である。

人間に栄光を帰する教え。

つまり、それは、キリスト教ではない。

 

 

2019年2月23日



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