科学的認識論のみに依存することの危険性と無益さ


キリスト教が東方伝道を始めたのは、アラボンが最初だという学者と議論したが科学の限界を感じざるを得なかった。

歴史学は科学の一種だが、他の科学と同様に、帰納法的認識論なので、データに依存している。

一切のドグマを廃して、現実から得られるデータだけで考えるという手法は科学のそれとしては正当であり、確実である。

しかし、データが得られない限り結論がでないため、わからない部分、断定できない部分が多く残る。

われわれクリスチャンは、知識を得る方法として、帰納法的認識論だけに頼っているわけではない。

聖書という主要な知識の源泉があるからである。

科学的にはアラボンが最初だとしても、聖書に依存するならば、紀元1世紀に世界伝道が行われており、当時、東洋にも伝道者がやってきたと結論できる。

使徒たちの主要な任務は「世界に散らばっているユダヤ人にも救い主の到来を伝えよ」ということであった。

ペテロはバビロンに向かい、トマスはインドと中国に向かったと伝えられている。

われわれは、紀元前にすでに中国にユダヤ人の集落があったとの記録と、この「ユダヤ人伝道」の2つから「東洋における紀元1世紀の福音伝道」を結論するが、科学的データのみに依拠する歴史学者はそれができない。

それゆえ、彼らは、無数の状況証拠を前にして「わからない」としか答えることができない。

日本に紀元1世紀に伝道者がやってきたことをわれわれは結論できるが、物的証拠に依拠する彼らはできない。

もしクリスチャンも「知識の獲得の方法は科学のみによる」と考えるならば、信仰において妥協するしかなくなる。

考古学的な証拠に依存すると、その科学的方法の未熟さのゆえにノンクリスチャンの科学者が出す進化論の結論を鵜呑みにするしかない。

こうして、信仰が崩れて、サタンの罠にはまって永遠の命を失うのである。

クリスチャンの文明においては、聖書啓示を科学的認識論の上位に位置させる必要がある。

神の言葉は絶対としなければならない。

科学的知見を聖書よりも優先するならば、信仰はガタガタになる。

今回、日猶同祖論を巡る議論において、私は、科学者に頼ることの危うさと不利益を強く感じざるをえなかった。

彼は、木島坐天照御魂神社の社務所の由緒書には、「ここは景教が渡来し、秦氏と関連があったことの名残りをとどめる遺跡として伝えられる」と記されていることを根拠に、景教の伝来は秦氏の来日の283年であると述べたところ、この根拠は科学的ではないという。

もっと確実な物的証拠が必要だと。

今の歴史学はこれ留まりである。

先に進まない。

景教伝来の確実な物的証拠が出るまで黙るしかない科学的発見を待つ責任はわれわれにはない。

 

 

2019年2月1日



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