「ユダヤ人は、アブラハムにおいて神との間に契約を結んでいる。だから、パレスチナの土地は、ユダヤ人のもので、ユダヤ人はその土地を守らなければならず、その中にパレスチナ人という異教徒が国を作ってはならない。」
これが、メシアニック・ジューの人々の立場だ。
これは旧約と新約の経綸の区別をしていない間違った考え方である。
旧約聖書はイエス・キリストにおいてすべて成就された。
だから、どこが聖地でどこが属地という区別はない。
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)
「御子によって万物を、…和解させてくださった」のである。
十字架の血は、万物の間から敵意を取り去った。
万物は神と和解しており、神は万物を敵視しておられない。
すべては聖められた。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28・18)
天地にあるすべてのものは「キリストの権威のもとにある」。
すべてはイエス・キリストのものである。
だから、パレスチナの土地はイエス・キリストのものになった。
イエス・キリストはユダヤ人の王であるから、「アブラハムの契約は成就した」!!!
神がアブラハムに対して「このすべての土地を与える」と言われたあのパレスチナの土地の所有権はユダヤ人の王であるイエスの手に入った。
だから、パレスチナはユダヤ人のものとなり、神は契約を守られた。
たとえそこにアラブ人の国が出来たとしても、神の契約が損なわれたことにはならない。
なぜならば、全地の所有権はキリストのもとにあるから。
「じゃあ、ユダヤ人はパレスチナの土地を獲得できないのか。永遠にさまよい歩くのか」と尋ねるかもしれないが、「そんなことはない」と答える。
イエス・キリストの主権は「法的」だから。
それは、「実際的」ではない。
神はイエス・キリストに「全世界を与えた」と宣言された。
だから、それ以降、全世界はキリストのものである。
しかし、現実を見ると2000年経ってもまだ世界の多くがノンクリスチャンによって支配されている。
これはどういうことか。
「キリストとクリスチャンは法的に王だが、実際的にはそうではない」。
アパートの権利を買ったとする。
そのアパートをつぶして、マンションを建てたい。
しかし、アパートにはまだ住民がいて、立ち退かない。
この場合、私は「法的所有者」だが「実際的所有者」ではない。
契約の民は、世界の「法的」所有者である。
イエス・キリストが世界の所有者であるから、われわれも世界の所有者である。
ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。
パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。(1コリント3・21-22)
しかし、まだまだ世界は実際的な所有にはいたっていない。
なぜならば、「実際的所有には時間がかかる」から。
新約時代とは、「法的所有を実際的所有に変える時期」である。
イエスは、弟子たちに「すべての国民を弟子とせよ」と命令された。
だから、われわれは全世界の国民をキリストの弟子とすることができる。
ただし、それには時間がかかる。
スウェーデンがキリスト教国になるのに千年かかった。
そして、今またもや異教徒によって占領されている。
神の国が広がる方法は「人の同意を得ながら広がる」方法である。
つまり、福音を受け入れてよろこんでキリストに従うようになる方法である。
強制や暴力でクリスチャンにはできない。
同じように、パレスチナがユダヤ人の所有に復帰する場合、それは、暴力によらない。
すでにパレスチナはキリストの所有であるから、回復しているのだ。
これから必要なのは、現地の人々が満足する方法で国を作ることである。
同意を得ながら進まなければ、それは早晩潰れるだろう。
神はそのような拡大を期待しておられないから。