体験と聖書の学びがワンセットで一人前


(1)

孤立することは、必ずしも悪ではない。

なぜならば、ものを考える習慣ができるから。

子供時代、青年時代に恵まれた環境で育ち、友人関係が良好で、家族も円満。

そういった人は、預言者にはなれない。

「いい人」にはなれるかもしれない。

人に好かれる人になれるかもしれない。

友達も多くいるかもしれない。

しかし、神様の与える幸せは、そんなレベルではない。

神は、聖書を「深く」理解させるために、あえて苦しみの中に放り込まれる。

地獄のような体験をすることによってトラウマは残るだろう。

しかし、トラウマが残らないような訓練は訓練ではない。

たびたび夢に過去の記憶が出てきて苦しめられることがないような体験しかしてこなければ、聖書を深く理解などできない。

そして、こういう地獄の体験を積んだ人だけが霊的な世界を理解できる。

現象の世界の背後にある何かがわかるようになる。

同じ霊的な理解力のある人でも、間違った方向に行って、人生を破滅させる場合があるから、体験がすべてだとは言わない。

たとえば、霊能力のあるというあるタレントは、原爆投下時に、自宅にいて絵を描いていた。

その絵の全体を見るために窓のそばにおいてあったその絵から離れたときに爆発が起きた。

もし近づいたままであれば、全身にガラス片を浴びただろうと。

長崎の自宅の前を、体がぼろぼろになった人々が通って行った。

このような壮絶な体験をしても、聖書にしたがって考え方をチェックしないと、悪霊の道具になって輪廻転生などを人々に教えることになる。

体験を聖書によって解釈できなければ、何にもならない。

2重の選びが必要だ。

一つは神によって体験をさせられること。

もう一つはそれを聖書に基づいて解釈しなければならないという謙遜さを身に着けること。

これができる人は選ばれた人である。

選ばれていなければ、以上の二つがそろうことはない。

どちらが欠けても、神の国において大きな役には立たない。

(2)

フリーハグで日韓友好を、などというレベルの理解しかできない人は、それだけの体験しかしてこなかったのだ。

もしくは、体験しても、教訓とすることができなかった。

不条理を体験することによって、聖書を違う次元で理解できるようになる。

「クリスチャンなら、隣国の平和と友好を望むはずです」というのはもっともなのだが、そんなレベルで解決できるなら、大昔に実現できただろう。

このレベルで聖書を理解しているのがディスペンセーショナリズムの教会なのだと思う。

まんまとイルミナティに騙され、左翼思考に陥ってしまった。

韓国のために働くと公言した議員牧師。

教会に行くと、戦後の洗脳教育そのままの理解をする牧師が「日本は悪魔の国です」とか。

浅い理解は浅い思考の結果であり、浅い思考は浅い体験と浅い聖書理解の結果である。

体験と聖書の学びがワンセットで一人前。

これがそろっている人を見つけることは、砂漠の中に一粒を見つけるほど難しい。

 

 

2015年1月12日



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