感動的な話で人を集めても、教会が歪むだけである
1.
「俺は科学しか信じない」という人は、宗教家である。
なぜならば、科学を信仰の対象としているから。
現代人の多くは「科学教」を信じている。
「科学的知見だけを信じて生きる」ことは、原理的に不可能である。
(1)人間は有限な存在なので、この宇宙を全体的に把握することは不可能である。
200億光年の先の天体の地下500kmのところで今何が起きているかを知ることは原理的に不可能である。
それゆえ、人間は、「無根拠に」今地球上で適用できる法則があらゆる場所に適用できる、と「仮定」するしかない。
(2)印象と本質を結びつけることができない。
「目の前の山について考えることができる」と主張する人がいても、その人は「自分の網膜に映った山の像(印象)について考えることが、その山そのもの(本質)について考えることになる」ということを証明できない。
(3)個物と普遍を結びつけることができない。
犬について何万匹について考え、結論を出したとしても「犬という類」について結論を出したことにならない。
何万匹集めても個物の集合でしかなく、それらが「犬という類の代表」であることを証明できない。
じゃあ、どうして動物学では類別が許されるかというと「信仰」があるからである。
「圧倒的大多数に共通する特徴を備えている個物を一つのグループにまとめることができる」という信仰があるからである。
信仰に頼らずには科学は成立しない。
2.
このように科学は、一種の信仰の体系であって「純粋に事実のみに基づく」と胸を張って言えない。
データだけで科学的知見は原理的に得られず、そこに「信仰」が常に介在するので、「純粋に実証的に思考する」ことは、人間はできないのであるから、すべての人は不可避的に宗教的であり、それゆえ、クリスチャンを「妄想家」と馬鹿にできない。
クリスチャンは聖書という世界観を土台として科学をするが、ノンクリスチャンは「自分が作った世界観」を土台としてそれを行う。
世界観など要らないとは誰も言えない。
3.
クリスチャンは聖書から「殺人は悪だ」というが、ノンクリスチャンは「自分が作った世界観」に基づいて「殺人は悪だ」もしくは「殺人は善だ」と結論する。
クリスチャンの場合、聖書を基準に思考するのには合理的な理由がある。
「神は全知であり、しかも、創造者なので、神が設定した価値基準に基づいて善悪を正しく判断できるし、その啓示に基づいて思考することによって真理に到達できる」と言える。
しかし、ノンクリスチャンは、このような合理性はない。
彼らは「人間は全知ではなく、物事の価値の決定者でもないが、<それでも>善悪を決定できるし、正しく思考できる」と言う。
「私は社長なので、会社の方針を決定できる」という人と、「私は社長ではないし、そもそも社員でもないが、会社の方針を決定できる」という人と、どちらが合理的だろうか。
4.
聖書的キリスト教は、人間に首尾一貫した思考体系を与えるので、それ以外のあらゆる立場よりも優越している。
それゆえ、時間が経つとともに、聖書的キリスト教は勝利する。
非合理は、合理に勝てない。
証拠を出せない側と証拠を出せる側のどちらが勝つだろうか。
先日の「レーダー照射問題」でも明らかなように、出せない側がいくら強弁しても、最終的には、証拠を出せる側が勝つ。
「ウソも百回言えば真実になる」と考える民族は、いずれ滅びる。
5.
伝道の方法を「感情中心」に行うのは間違いである。
「感動的な話を聞いて水のバプテスマを受け、クリスチャンになった」としても、聖霊のバプテスマを受けていなければ、その人は、いずれ信仰を捨てる。
本当に救われている人は、感情や理屈を超えた世界に生きている。
どんなに罪を犯したり、失敗したり、周りのクリスチャンによって躓かされても、本当に救われている人は、信仰を捨てない。
なぜならば、信仰の土台は「神の側」にあり、「人間の側」にはないから。
神が選ばれたので、信仰が続くのである。
自分ではどうしようもできないのである。
信仰を捨てたくても捨てられないのである。
クリスチャンで信仰を捨てた人がいたとしても、その人は、最初からクリスチャンではなかったのである。
単に「もとのさやに戻った」に過ぎない。
異端に走る人は最初から異端だったのである。
真の信仰を維持する人は、最初から真の信仰の中にいたのである。
「人に躓きました」という人は、理由などなんでもいいのである。
信仰を捨てるための大義名分を探して、見つかっただけである。
だから伝道とは「真理を伝えること」だけでいい。
感動的な話などする必要はない。
感動的な話で人を集めても、教会が歪むだけである。
2019年2月2日
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