クリスチャンは相手を執拗に追い回さない


1.

クリスチャンは、相手を執拗に追い回さない。

なぜならば、「主に委ねる」という方法を知っているから。

安息日の規定は「自分がやるべきことをやり終えたら、後は主に委ねて休め」と教えている。

誰かを憎むとか、恨むとか、ストーカーするとか、仕事をやり過ぎるとか、責任を負いすぎるとか。

こういう人は、問題の正しい処理方法を知らない。

自分でやれることをすべてやったら、仕事は神の手に移るのである。

「相手がクリスチャンになるまで徹底して愛せよ」なんて聖書に書いていない。


もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(マタイ10・14)

足についたちりを払うとは、「あなたとは一切関係がありません」という宣言である。

福音を拒絶する人をどこまでも追いかける必要はない。

後は、神の仕事である。

神がその人をどう扱われるか、われわれには関係がない。

異端に走った人には「一二度戒めて追い出せ」と教えられている。

分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。(テトス3・10)

寛容を示す相手は、悔い改めてきた人に対してである。

かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ17・4)

「悔い改めます」と言わない人に対してまで受け入れなさいとは教えられていない。

われわれがすべきことは、絶縁である。

異端者を教会に止めておくことは、周囲に害を及ぼす。

回りの人も影響を受けて、異端に走りかねない。

2.

憎しみの感情を持ち続けるのは、相手に依存していることを意味する。

相手の一挙手一投足が気になってしかたがないのは、頼っているからである。

神に依存していれば、相手を心理的に切り離すことができる。

「ああ、あの人のことは神が処理してくださる」と割り切れる。

今回ユーチューブに抗議したが、どこまでも食い下がるつもりはない。

これで3度目の抗議だから、もうやらない。

神がユーチューブに責任を問われるだろう。

ある店で従業員の態度に問題があったので苦情を言ったことがある。

店側に謝罪の意思がないとわかったので、引き下がり、神に委ねた。

その後、ボヤを出して営業停止になった。

HPの読者に会った。

「三位一体でなくて、三神でいいんじゃないですか」と食い下がってきたので、「いや聖書がそう啓示しているので」と答えたが、納得しなかった。

しばらくして連絡があり、家が全焼したという。

こちらが聖書から示したら、責任は相手に移る。

聖書から示さなければ、責任は私にある。

しかし、こちらが御言葉を示したら、聞いた人は、御言葉に服従するという応答をしなければならない。

それを頑固に拒絶するならば、神がその人に責任を問われる。

「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル3・17-19)

聖書が教える人間の責任は限定的である。

その責任を果たしたら神からの守りがある。

後のことは心配に及ばない。

3.

「あなたの敵を愛しなさい」との戒めは、「敵が不法を働くままに放置せよ、または、その悪事を支援せよ」という意味ではない。

「敵が悔い改めて立ち返るように勧めなさい」という意味である。

「敵を愛せよ」とあるから、不法を働く相手の悪事を支援しなければならないと解釈すべきではない。

敵が悪事と無関係なところで必要を覚えているならば、助けるべきである。

たとえば、喉が渇いたと言った場合「この人は憎たらしいから水をあげない」というのではなく、水を与えるべきである。

その支援は、逆に呪いとなって相手の滅亡を助長する。

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。(ローマ12・20)

普通の人の判断であれば「飢えているなら放置しよう」または「さらに食料を奪ってさらに苦しむようにしよう」となるだろうが、クリスチャンは逆に「食べさせよう」と考える。

それは「悪の滅亡が促進されるため」である。彼の必要に応えれば応えるほど、彼の頭には燃える炭火が積み上がっていく。

クリスチャンの目的は、神の国の拡大である。

敵を憎むことによって神の国は拡大しない。

逆に敵に便宜を図ることによって、神がその不法な人の滅亡を早めてくださり、神の国の拡大につながる。

もちろん、その前に相手が悔い改めるならば、そのほうがもっといい。

だから、クリスチャンは相手への説得を試みる。

悔い改めを拒むならば、放置である。

神が彼を処分してくださる。

 

 

2018年6月14日



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